私の母方の祖父は、戦時中満州国にいました。まだ、祖父は5歳ぐらいだったそうです。
まだ日本の勢力があった時期、満州に家族でくらしており、お手伝いさんがいたり、広い家で裕福にくらしていたそうです。
しかし日本がだんだん負け始め、やがて敗戦国になってしまったとたん、中国人からの酷い仕打ちが始まったと言っておりました。
これまでの生活が逆転し、家も奪われ夢のように儚く、なにも無くなったそうです。
家族とバラバラにされ、大人、子供関係なく引き離され、命がらがら1人だけ船に飛び乗り、日本にかえれるか分からないがとにかく飛び乗ったと言っておりました。
日本にたどり着いて祖父は母親と再会し、それ以降はずっと一緒に暮らしていました。
それ以上は詳しく話してはくれなかったのですが、言葉するのも苦しかったろうと思います。
私の祖母は当時、4歳ぐらいでした。
食べ物は本当に何もなくて、ずっとひもじい思いをしてたと言っていました。あるものはさつまいもだけ。
毎日毎日、さつまいもを食べ続けたと。だから、今はさつまいもを食べるのはもちろん、見るのもいやだと言っています。
当時のことが鮮明によみがえると言って嫌がるのです。
私は父方の祖父と生まれたときから暮らしており、よく戦時中の話や昔話を聞いてきました。
祖父はたいへん若かったにも関わらず、100人ほどの陸軍の隊長をしていたそうです。
当時、確か沖縄に近い島にいたと言っていたような記憶があります。
いつアメリカ軍がきてもおかしくなかったと言っていました。
そんななか、隊員は故郷を懐かしみそれぞれが夜になるとひっそりと涙を流したり、歌を歌ったりしたそうです。
祖父はハーモニカ吹きで、『旅愁』という歌を吹いていたといってました。
私が子どものころ、寝る前によく歌ってきかせてくれていました。
祖父が生きて帰ってこれたのは、戦艦大和が盾になって下さったからだと言っていました。
戦艦大和が撃沈されて、祖父の軍隊は作戦を変更したそうです。
亡くなられた方々のお陰さまで生きてきたと常々言っておりました。
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