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遅かった?日本海軍の限界?太平洋戦争での海上護衛戦(前編)

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太平洋戦争において、日本海軍は船団護衛を軽視していたと言われます。
何故軽視したのか?太平洋戦争が開戦して海上護衛はどうなったのか?

目次

太平洋戦争前半の航路防衛

1941年(昭和16年)12月に太平洋戦争が勃発してから戦争の前半において、日本海軍はどのように輸送船が通行する海上航路を守っていたのか?
開戦時の日本海軍には内戦部隊と外戦部隊なる区分けがあった。
海軍の主要な作戦を実行する連合艦隊は外戦部隊、つまり前線部隊は外戦部隊でした。
対して内戦部隊は開戦前からの日本の勢力圏内で行動する後方部隊として分けられていました。
海上航路を守るのは内戦部隊の役割でした。

内戦部隊の海上航路を守る艦船は横須賀・呉・佐世保・舞鶴の鎮守府をはじめ、大湊・馬公(台湾)・鎮海(朝鮮)・旅順(中国)の警備府に置かれていました。
所属する艦船は「占守」型海防艦に基準排水量500トンほどの駆潜艇や、戦時に民間船を海軍の船として使用している特設艦船です。
海防艦は占守型が4隻しかないものの、駆潜艇や特設艦船を集め航路を守っていました。

連合艦隊で海上護衛部隊編成

大正時代に日本海軍ではイギリス海軍の対潜水艦の部署にならい、日本海軍も同様の部署を設けるべきと提言がありましたが実現はしませんでした。
これは日本海軍が敵艦隊と戦う軍備を拡充する事に集中していた為です。
敵潜水艦や海上護衛を軽視していた考えがあったものの、日本海軍は大国アメリカの海軍に対抗する戦力を作る必要性がありました。
また、対米戦を日本海軍は短期戦で終わるものと計画していた事もあり、後方の海上航航路まで危険が及ばないとも考えられていました。
しかし、開戦した太平洋戦争は短期間では終わりませんでした。

開戦してすぐの1942年(昭和17年)に米軍潜水艦は日本本土近海に出没して船舶の被害が生じていました。
太平洋戦争の方針も短期戦ではなく、資源地帯を占領して長期持久体制を確立する長期戦を戦う事になっていました。
開戦して状況が変化したこの年の4月、連合艦隊に新たな部隊が編成されました。
第1海上護衛隊と第2海上護衛隊です。
「若竹」型駆逐艦や「睦月」型駆逐艦などの旧式駆逐艦に「鴻」型水雷艇や特設艦船を入れた編成だ。
旧式とは言え駆逐艦がある事で、より外洋を航行でき武装もある護衛艦艇が輸送船を守る為に配備された。

シンガポールから日本本土の航路を第1海上護衛隊が担当し、日本本土からトラック島の航路を第2海上護衛隊が担当した。
しかし、第2海上護衛隊は特設艦船が3隻しかなく、駆逐艦の配備が決まるものの、ガダルカナル攻防戦が始まると前線へ引き抜かれてしまいました。
ようやく船団護衛を始めた日本海軍でしたが、広い海域と多くの船舶を守るには戦力は足りませんでした。

参考文献
「海上護衛艦物語」雨倉孝之著 光人社NF文庫
歴史群像No.178 「海上護衛作戦」文:長南政義 ワン・パブリッシング

※画像はイメージです。

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