農民が武士を駆逐?それが明治維新です。

実は農民兵は、武士団より強かったのです。

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旗本八万騎

徳川将軍家の直属の家臣の内、将軍と謁見できる御目見えの者で、一万石以上は大名、それ未満が旗本と称されました。
旗本は元々は主君周辺を警護する親衛隊的性格の家臣団が発祥ですから、精鋭の誉れ高い軍団でした。
それが江戸時代の戦のない260余年間に、武官から文官へと変質していきました。
そして幕末、いざ出陣となった時に、多くは旗本の役目を果たせるほどの、武技も覚悟もなくなっていました。

幕府はフランス式近代軍隊の制度を取り入れて、軍の整備を始めます。
近代的軍隊とは、歩兵銃を装備した歩兵を士官が統率し、団体で戦闘を行います。
高い気位だけは持ち続けていた旗本たちは、鉄砲を持つのは身分の低い足軽だという古い固定観念が強く、屈辱的にしか感じられない近代戦法を受け入れようとしませんでした。

また士農工商の身分意識から抜け出せない彼らには、百姓町人の軍隊がまともに戦える事など想像できませんでした。
例えば幕府が整備した歩兵団を、彼らは「臥煙(がえん)」と蔑みました。
臥煙とは火消人足のことで、任侠など無頼漢の蔑称でもあります。

農民兵

高杉晋作が創設した奇兵隊は、「奇を持って虚をつき敵を制する兵」という趣旨から命名された軍団です。
その最大の特徴は、武士階級ではないあらゆる層、つまり農工商はもちろん、力士や僧侶・神官、最下層の穢多や無宿者まで含む、全ての人を対象にした志願兵で成り立っている点です。

それまで政治と軍事は武士にのみ許された役割でした。
その仕組みは、軍事力を持つ武家の平清盛が太政大臣となって政(まつりごと)を我がものとした事に始まり、鎌倉幕府の成立で武士が国の政治を代行するようになって以来、室町、織豊、江戸と時代が後になるほど政治上の専断度合は強くなり、この制度は徳川幕府が消滅するまでの700年の長きに亘って続いた半恒久的制度でした。

つまりそれは幕末の人々にとっては、水が低位に流れるが如く、空気が身の回りに存在するのと同様の、誰も疑いを差し挟む余地のない、常識であり必然でした。

そんな社会の大前提がこの時、俄かに崩れたのです。
それは何百年に一度という世の大転換、大改革でした。
奇兵隊の身分別の内訳は武士が約半分でしたが、次席の農民出身が4割ほどを占めていたので、農民兵の軍隊という呼び方をします。

旗本対農民兵

第二次長州討伐に際し、後に明治政府の軍政トップになった大村益次郎は、この兵団をさらに強力にするために、実戦での指揮官となる士官の教育に注力し、さらには世界的にも最新式だったミニエー小銃を大量配備しました。
その結果、朝敵としての長州が全幕軍を相手に戦った長州征伐では、圧倒的多数の幕軍を各所の前線で打ち破るほどの強軍となっていました。

武士の気概を失った武士は、自ら戦いを志願した農民兵の敵ではなく、気骨を残した武士の昔ながらの戦振りは、新式銃で武装した農民兵の近代戦法に当然の如く敗れ去りました。
それはある意味、近代日本の始まりを象徴する出来事でもありました。

歴史大好きじいさんです。
武士とは政治と軍事の専門家のはずですが。

※画像はイメージです。

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