大阪万国博覧会が開催されたのは昭和45年(1970)だった。すでに日本は米国につぐ世界第2位の経済大国になっていたが、この華々しい祭典を境に国内の空気はがらりと変わったといわれる。戦後の復興をとげた日本に、希望に満ちた新時代がやってきた。
この年は、昭和を彩る役者がそろっていた年でもあった。昭和天皇はご健在。内閣総理大臣は佐藤栄作。自民党幹事長は田中角栄。防衛庁長官は中曽根康弘。政界だけではない。芸能界やスポーツ界もビッグスターの宝箱だった。もちろん文学界も。
そんな年のある秋の日、時代の最前線にいた男が突如として命を絶った。世にいう「三島事件」である。
三島由紀夫といえば、ノーベル文学賞最終候補と報じられ、『平凡パンチ』が企画した「オール日本ミスター・ダンディはだれか?」の読者投票で、三船敏郎、加山雄三、石原裕次郎、長嶋茂雄らをおさえて1位に選ばれたほどのスーパースター。
それほどの大物が、「日本刀を携えて自衛隊の本丸に乗り込み、クーデターを呼びかけたあげくに割腹し、介錯されて首と胴体が別々になった」のだから、世の中に与えた衝撃と余波は途方もないものだった。
謎はさらに謎を呼ぶ。この天才作家がなぜ自決の道を選んだのか、誰ひとり的確に解説できなかったのだ。
昭和45年11月25日、世界が受けた衝撃
まずは事件のあらましに触れておこう。
その日、三島は私設軍隊、楯の会の同志4名とともに、あらかじめアポイントをとっておいた市ヶ谷駐屯地に益田兼利陸将を訪問した。「市ヶ谷の駐屯地」とは、現在は防衛省本省が置かれているが、戦時中は陸軍省、参謀本部などがあった大日本帝国陸軍の心臓部である。
5名は談話中にいきなり益田総監を拘束して立てこもり、全自衛隊員を集合させるよう要求したのち檄文を撒く。三島は憲法改正のための決起を促した直後に割腹し、同志に介錯させて絶命した。享年45。
解剖所見によると、遺体はへそを中心に横14cmほどの切創があり、深さは4cm。腸が50cmほど飛びだしていたという。「発達した若々しい筋肉は30代のよう」との所感からもわかるように、剣道の有段者でありボディビルダーでもあった三島の腹は硬い筋肉に覆われていたのだろう。
人間の腹部というのは、ただでさえ刃物が通りにくくできている。刃を深く突き刺せば失神し、痙攣と硬直に襲われる。三島が切腹死に対する嗜好やこだわりをもっていたことは、映画化された小説『憂国』や幕末の剣客を演じた『人斬り』でもみてとれるが、だからといって、ここまで深く自分の腹に短刀を突き立て、左から右へ真一文字に切り裂けるものだろうか。軍人でもない人間が。
介錯をつとめた森田必勝は敬愛する師を斬ることに臆したのか、狙いが定まらなかったのか、追い太刀をしている。三島は「ちゃんと狙え」と歯を食いしばり、ついには舌を噛み切ろうとしたという。その右肩には初太刀が外れたとみられる刀痕があり、顎にも生々しい切創が残っていた。
決起のわずか1時間ほど前、三島は知己の記者に電話をかけ、現場にほど近い市ヶ谷会館に午前11時に来るように頼み、そこで同志を介して檄文を託している。万が一、それが警察に没収され、事件そのものが隠蔽されたときのことを考えての措置だった。記者は事件発生を知るや、その足で駐屯地に走って演説を目撃する。
若いころからの友人で、家族ぐるみのつきあいがあった警務部参事官の佐々淳行(さっさあつゆき)は、「三島を説き伏せよ」との指示のもと、現場に急行した。が、到着したときはすべてが終わったあとだった。
総監室に入ると、こちらを向いて床に置かれたふたつの首が目に飛び込んできた。向かって左手に三島、右手に殉死した森田。その前には遺体が仰向けに寝かせられ、楯の会の制服がかけられている。
遺体に歩み寄ろうとすると、靴の下の赤い絨毯がジュクッと音をたてた。真紅の絨毯と血溜まりの見分けがつかなかったのだ。
「あのときの不気味な感触は今でも忘れられない」と佐々は回顧する。
国際的な著名作家の壮烈な最期は海外のテレビやラジオでも速報で流された。
鋭いまなざしをたたえ、間違った時代に迷い込んだ場違いな軍人。それは真昼の白昼夢だった。誰もが三島の真意を知りたがり、なにかを語りたくてしょうがない事件になった。
まやかしに満ちた戦後日本への嘆き
『英霊の聲』を発表した昭和41年(1966)、日本は高度経済成長期の真っただ中にいた。3C(自動車、クーラー、カラーテレビ)がもてはやされた昭和元禄である。そういう時代風景を「あれは新たな時代の幕開けだった」とポジティブに振り返る人は多い。
しかし、その陰に日本人の魂の腐敗と伝統的文化の衰退を感じていたのが三島だった。4年後の日本万国博覧会も、彼に言わせれば「欺瞞的な平和、底の浅いヒューマニズムにまみれた愚者の祭典」となる。高度成長期の風潮によって、いまや多くの日本人が薄っぺらな物質的幸福を享受するだけになってしまった。この国の美意識も、先の戦争で払った大きな犠牲も忘れたかのように。
その目には、日本人の精神をむしばんでいくものや、この国から失われていくものがはっきりとみえていたのだろう。美しい日本が音をたてて崩れていくさまが映っていたにちがいない。
自決の4カ月前には、新聞の戦後25周年企画に『果たし得てゐない約束』と題したエッセイを寄稿し、自身の25年間の虚無を振り返るとともに、戦後社会との決別を宣言している。以下のフレーズは、実質的な遺書のひとつとして多くの三島研究で取り上げられているものだ。
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら『日本』はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう」(『果たし得てゐない約束』より)
戦後民主主義の象徴としての日本国憲法と日米安保条約。三島は、ここをなんとかしなければ本当の意味での日本の復興はないと考えた。望んでいたのは、自衛隊を米軍の補完としてではなく、本来の「名誉ある国軍」たる地位に返すこと。たとえば米国の防衛力と、日本の独立的な自衛権の価値をはっきりと区別する。どういう場合に自衛隊が祖国と国民を自力で守りぬくのか、その線引きを明確にする。だから彼は自衛隊員に「国軍に立ち戻れ」と呼びかけた。自分の考えは軍国主義でもなければファシズムでもない、と。現場でばら撒かれた檄文にはこうある。
「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ」(『檄文』より)
切腹が象徴するもの、それは武士道だ。文人として世にでた三島は、武人としての最期を望んだことになる。
自決という謎を読み解く
『英霊の聲』には、降臨した英霊たちが戦後日本にはびこる偽物の平和、金銭だけの拝金主義、モラルの喪失を嘆くくだりがある。
それが三島の心の叫びだったのか、憑依した磯部浅一の義憤だったのかを確かめるすべはない。もしかしたら三島自身が、磯部の霊魂に憑かれているという精神状態に陥っていたのかもしれない。あるいは霊の憑依などではなく、無意識下にあるものが浮上して書かせた言葉だったとも考えられる。
ひとつだけ確かなのは、『英霊の聲』脱稿から時を移さず、なにかにせき立てられるように自らの大義に突き進みはじめたということだ。それはおそらく「日本人に警告すること」だったのだろう。それも死をもって。
自分たちが行動したところで自衛隊は変わらない。社会を覚醒させることなどできはしない。才知に長けた三島にそれが見越せないはずがない。
彼は計画が失敗したから自決したのではなく、はなから死ぬつもりだったのだ。それは決起メンバーの一人である小賀正義に語った言葉からもうかがえる。
「多くの人は理解できないだろうが、今、犬死にがいちばん必要だということを見せつけてやりたい」
親友の村松剛は、公私ともに恵まれ、ノーベル文学賞に限りなく近かった男が、そのすべてを投げ捨てて行動を起こした意義を「死をもって反省を促した諌死(かんし)」だと読み解いた。
三島の予言
三島はときおり、予言めいたことを口にしている。
以下は親交のあった『ザ・タイムズ』東京支局長ヘンリー・スコット・ストークスとの夕食の席でもらした不思議な話。
「緑色の蛇だよ。日本は緑色の蛇の呪いにかかっている。この蛇が日本の胸に喰いついているのさ」
ストークスは「緑色の蛇」の意味するところをずっと考え続けていたが、20年ほどたったころ、米国のドルのことだとわかったという。米ドル紙幣は緑色のインクが使われているため、「グリーン」などとも呼ばれる。
その年の春ごろにも、父・平岡梓に語ったという予見がある。
「日本は変なことになりますよ。ある日突然、アメリカは日本の頭越しに中国と接触し、日本は東洋の孤児になってしまう」
美輪明宏の言葉も引こう。
「今にとんでもない時代がくるよっておっしゃってたんですね。この日本に。子が親を殺め、親が子を殺め、通りすがりの人をいきなり刺したりとか、そういう時代がくるよって。戦うべきときにきちんと戦わないと、外来生物に乗っ取られて、日本が日本じゃなくなるぞって。何十年も前に言ってたわけじゃないですか。その通りになりましたよね」
『英霊の聲』は、霊媒師の青年の死に顔が本人のものではない誰かの顔になっていたところで終わる。
一般的には、死に顔は昭和天皇の顔になっていたとされており、英霊たちの声が天皇に届いたいう解釈が主流である。しかしながら、この小説は、作者の死と関連づけることによってさらに深い意味をもつ。事件後に小説を読んだ者は、まやかしに満ちた戦後日本を呪う英霊の一人に三島を加えるかもしれない。あるいは、英霊たちの怨嗟を受けとめて息をひきとった霊媒師の死に顔に三島を重ねるかもしれない。
半世紀を経た今もなお、事件の真相と死の意味が問われ続けている三島由紀夫。
その劇的な最期から、「昭和を駆け抜けた日本文化の殉教者」と呼ぶ人は多い。だとすれば、彼が憂いたこの国は少しはましになったのか。
国家としての不甲斐なさに、三島や英霊たちの霊魂がよみがえる日はくるだろうか。
featured image:土門拳, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で
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