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三島由紀夫『英霊の聲』と昭和奇譚~前編

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戦後生まれの日本人には、「天皇=現御神(あきつみかみ)」というイメージが描けない。戦争を知らない世代にとって、天皇陛下は自分と同じ「ひと」である。
昭和天皇が自身の神性を否定したのは昭和21年(1946)元日のこと。いわゆる「人間宣言」だ。GHQは天皇に自ら神格を否定させることで、この国のスピリットを骨抜きにしようとした。日本人を洗脳して支配するのに、これほど有効な手段はないだろう。
だから戦前・戦後を連続して生きてきた人々は、ある日突然、偉大な神が死ぬのをみた。

昭和41年(1966)、三島由紀夫は「ひと」になってしまわれた天皇への呪詛を描いた『英霊の聲(えいれいのこえ)』を世に問うた。作中で英霊たちは荒ぶり、陛下をお叱り申し上げている。
「神州を護れ」と神の軍隊を戦地に送っておきながら、今さら「わたしは神ではない」とはどういうことか。「天皇陛下万歳」と叫んで散っていった尊い命を裏切ったまま、以前とは宗旨替えした世界になぜ身をおいていられるのか。われらの死は奴隷の死になり下がった。魂は浮かばれず、行き場を失ってしまった。真心の血を流したわれらには陛下をお咎めする資格がある。

ひとたび神威を棄てた天皇を、ふたたび神に復帰させることはできない。三島はそれを知りながら、あえて天皇の過ちを断じ、殉じた者たちの声を届けることで彼らを鎮魂しようとした。戦後日本に対する作者の絶望が冷え冷えと伝わってくる。

この天才作家の死には不吉な怪聞がまとわりついている。晩年の三島には、2・26事件の首謀者である青年将校の霊が憑依していたというのだ。この異色の昭和史をひも解くには、まず遠因となった問題作『英霊の聲』に注目する必要がある。同作は三島の母が「これは息子の書いたものではない」と明言し、三島自身も「夜中に兵士の声が聞こえ、ペンが勝手に動いて止まらなかった」と告白するほど不気味な小説なのだ。ようするに、誰がおまえにこれを書かせたのかという話である。
悲劇の青年将校たちに気持ちを傾けているうちに禍々しい魂が降臨し、三島を操ったのだろうか。あの日の三島の行動も霊に突き動かされたものだとすれば、背筋に冷たいものを感じずにいられない。

目次

美輪明宏がみた青年将校の憑依霊

三島由紀夫は大正14年(1925)1月14日に生まれた。翌年に昭和に改元されるので、満年齢は昭和の年と一致する。終戦を迎えた昭和20年(1945が)20歳、割腹自決をとげた昭和45年(1970)が45歳というふうに。
2・26事件が勃発したのは11歳、小学校6年生のときだった。後年、『英霊の聲』を書いた経緯をこのように語っている。
「真のヒーローたちの霊を慰め、その汚辱をそそぎ、復権を試みようという思いを手繰っていくと、どうしても天皇御自身の『人間宣言』にひっかかる」
世直しという大義を掲げた決起が、多感な少年にいかに影響を与えたか。そのことは、青年将校たちを「英雄」と位置づける本人の言葉からもみてとれる。

三島の家族や知人たちが明かした奇妙な話がある。それは最晩年の正月のことだった。
三島邸に多くの著名人が訪れた新年会。三島は酔い、楽しげにホスト役をつとめている。にぎやかな宴の席で、丸山明宏(美輪明宏)が三島の背後にただならぬ妖気を放つ影をみた。その人影が着ていた大日本帝国陸軍の軍服らしきものと、ぼんやりみえた腕章から、将校クラスの軍人だと悟った。
「ねえ、ちょっと。三島さんの背中に何かいる。2・26の関係者かしら」
三島が決起将校たちの声に導かれ、魂を一体化させて、人生の終局に向かっていることを丸山は知らない。もちろん三島も自覚していない。しかし「将校の霊」に思い当たるふしがあった三島は内心どきりとしたにちがいない。自己の運命を自覚したとすれば、このときだったのではないか。それでも平静を装い、ふざけて返した。
「おお、こわいこわい。物好きなやつもいるもんだ。で、いったい誰なんだい、背中におんぶしてるのは?」

誰かと訊かれても、丸山には将校の名前などわからない。
「わたしにはわからないから、一人ずつ名前を挙げてごらんなさい」
「栗原安秀?」
「ちがう」
「じゃあ、安藤輝三?」
「それもちがうわ」
三島は次々に名を挙げるが、どれも丸山にはピンとこない。その名のもつ波長と、背後でうごめく霊の波長が合致しないのだ。ちがう、その人じゃない。それもちがう。そんなやりとりの末に三島が言った。
「磯部浅一か?」
「それだ!」
その瞬間、妖しい影はすーっと消えた。
「三島さん! すぐにお祓いをしなさい! こんな強い霊に憑かれてたら、とんでもないことになるわよ!」

いそべあさいち。銃殺刑にて死を賜る際に「天皇陛下万歳」を叫ばず、陛下を呪い、軍部を呪い、八百万の神々を呪い、成仏することを拒否して果てた男。この男がいなければ、2・26事件は起きなかったといわれる中心人物。よりによって、その磯部が憑いている?
三島の顔から血の気が失せるのを多くの人間がみていた。

2・26事件の挫折

それは昭和11年(1936)2月26日、大雪の朝のことだった。陸軍皇道派の青年将校たちが1400名あまりの下士官・兵を率いて蜂起した。目的は「君側の奸(くんそくのかん)」、つまり天皇を利用して悪政を行う奸賊を誅し、政界・財界の腐敗を一掃して、天皇中心の新たな政治体制をつくること。ひと言でいうなら「昭和維新」である。
決起部隊は首相官邸などを襲撃、高橋是清蔵相ら政府要人を殺害した。指揮した青年将校たちは陛下の御名のもとに世直しをしようとクーデターを決行したのであり、彼らにとって、それは反乱ではなく正義の行動だった。

当初、陸軍首脳部には決起に共鳴する動きもあったといわれる。こうした動きに加え、「皇軍相撃」を忌避した軍は武力鎮圧に二の足を踏む。
しかし、軍部の煮え切らない態度が昭和天皇の逆鱗に触れてしまう。親しかった鈴木貫太郎侍従長に危害が及んだことへの怒りも、ことのほか深かった。
「日本もロシアのようになりましたね」
19年前のロシア革命では軍が反乱に協力し、ニコライ2世が一家ともども虐殺された。陛下のこの言葉は、自分がニコライ2世と同じ運命をたどることを恐れたものと思われる。
「反乱軍」という言葉を初めて用いたのも、ほかならぬ天皇陛下だった。陛下は将校たちの国を思う至誠を理解することなく、無情にも鎮圧を命じる。その激しい怒りに触れて、たちまち軍首脳部は正気に返り、鎮圧に向けて一気に動きだした。

陛下から「反乱軍」と言われては、決起部隊ももはやこれまで。将校たちは自決を決意し、勅使(天皇の使者)の派遣を申し入れるが、これにも陛下は人間的感情をあらわにして、はねつけてしまう。
「自殺するなら勝手になすべし。このごとき者に勅使など、もってのほかなり」
こともあろうに、自分たちが崇敬する天皇に「賊軍」とみなされるとは。皇道派将校たちの志は淡雪のように消え去った。

2月28日、討伐を命ずる奉勅命令が出され、粛軍が実行される。
決起部隊の将校たちは兵士を原隊へ帰らせたのち、何名かは武力行使の責任をとって自決する。残った者は法廷闘争に訴えるべく、投降して陸軍刑務所に収監される。しかし軍法会議で彼らの訴えが斟酌されることはなく、首謀者たちは「逆賊」として裁かれ、失意のうちに銃殺刑に処された。多くの将校が「天皇陛下万歳!」と叫んで死んでいくなか、この言葉に唾を吐いた者がいた。

「何ヲッ! 殺されてたまるか、死ぬものか。死ぬることは負けることだ、成仏するものか。悪鬼となって所信を貫徹するのだ。必ず志を貫いてみせる」(磯部浅一の手記より)

怨霊と化した磯部浅一

磯部が処刑前に書き遺した手記がある。そのなかには、自分たちを逆賊とみなして否定した昭和天皇をはじめ、軍部首脳、世の中、神々に対する叱責と怨嗟の言葉があふれている。

「天皇陛下 何と云ふ御失政でありますか 何と云ふザマです、皇祖皇宗に御あやまりなされませ」
「死にたくない、仇がうちたい、全幕僚を虐殺して復讐したい」(磯部浅一の手記より)

とても正気の沙汰とは言いがたい文章だが、刑を間近に控えた人間の腹心だと思うと戦慄をおぼえる。決起の正当性を理解してもらえず、裏切られたという気持ちが誰よりも強かったのだろう。鬼気迫る文章からは、大義を無にされた無念さが伝わってくる。
こんな怨霊に目をつけられては、三島といえどもたまらない。

『英霊の聲』

三島作品のなかでも、神霊的、または心霊的な色合いがもっとも際立つのが『英霊の聲』だろう。
作中では、悲劇の青年将校と、太平洋戦争の神風特攻隊の霊が次々と霊媒師の青年に降臨する。そして、2・26事件の際の天皇の裁断と戦後の人間宣言を呪詛するさまが能の修羅物2場6段の構成でつづられる。このあたりは、いかにも古典芸能に精通した三島らしいアプローチだ。

「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」(なぜ天皇は人となってしまわれたのか)という印象的なリフレインは、もちろん昭和天皇に向けられている。裏切られた英霊たちの義憤と、繁栄に浮かれる祖国を憂う声がこだまする。
昭和の歴史において二度だけ、あなたは神であるべきだった。なのに、それを二度とも逃した。もっとも神であるべきときに人間であったのだ、と。

「一度は兄神たちの蹶起の時、一度はわれらの死のあと、国の敗れたあとの時である。(中略)この二度のとき、この二度のとき、陛下は人間であらせられることにより、一度は軍の魂を失はせ玉ひ、二度目は国の魂を失はせ玉ふた」 (『英霊の聲』より)

われらは奸臣を討つことで天皇への至誠をはたそうとした。ところが逆に怒りを買い、処刑されることになった。それでも陛下が神ならば納得もできよう。しかし、あなたは「ひと」になってしまった。われらの死は犬死にとなった。死んでも死にきれない。
われらもまた、命を盾に神国を護ろうとした。陛下が神ならばこそ、空に散ることができたのだ。それなのに。
「なぜ人となってしまわれた! なぜ!」

リフレインはシュプレヒコールとなり、家じゅうを揺さぶる。帰神の会(降霊会)の列席者は、その鎮まらぬ怨嗟の激しさに恐れおののき、じっとうずくまるしかなかった。強い怨念を受け止めた霊媒師の川崎が倒れ込み、こと切れるところで物語は終わる。ふと気づくと、その死に顔は本人のものではない誰かのあいまいな顔になっていた。

三島は読み手に問いを突きつける。
日本人にとっての天皇とはなんなのか。その神威のもとで行われた戦争とはなんだったのか。そして、その戦争で死んだ者とは?
天皇への抗議は戦後の時代風景にも向けられる。神なきあと、この国は精神性をどこかに置き忘れ、西洋かぶれの虚飾の繁栄にうつつを抜かし、物質的幸福がものをいう、からっぽな国になり下がった。しかし、その嘆きはもはや日本人には届かない。

「三島さんが命を賭けた」と感じた瀬戸内寂聴は、読後に手紙を書かずにはいられなかった。結末の霊媒師の死に顔は昭和天皇の顔に変わっていたのではないかと問うたところ、本人から返事が届いたという。
「最後の数行に鍵が隠されてあるのですが、ご炯眼(けいがん)に見破られたようです」
この作品を戦後の日本でもっとも重要な小説のひとつに位置づける加藤典洋は、戦後日本が滑稽な茶番にならずにすんだのは、三島のような人間がいてくれたおかげだと述べている。

磯部の霊魂と三島の精神が合致する

三島は磯部の手記を高く評価した。そんな三島の心のひだに磯部は付け入ったのだろうか。これは霊魂に書かされた小説だという話がある。

この話を裏づける根拠としてよく引き合いにだされるのが、母・倭文重(しずえ)の証言だ。脱稿したばかりの原稿に目を通すや、血の凍るような悪寒を感じたというのだ。いったいどんな気持ちでこれを書いたのかと問いただすと、こんな言葉が返ってきた。
「夜中に執筆していると、書斎の隅々からくぐもった人声が聞こえてきた。声の主は2・26事件の兵士たちだった。ペンが勝手に原稿用紙の上をすべって止めようにも止まらないんだ」
母は息子の作家人生の終焉を直感したにちがいない。禍々しい霊気を放つその文章は、自分が知る息子の書いたものではなかった。
文芸評論家の奥野健男も似たような体験を明かしている。一読して磯部が降りていると感じ、背筋がぞっとしたというのだ。以前、一緒にコックリさんをやっていたとき、「邪魔しているのは磯部だ」と三島がつぶやくのを奥野ははっきりと聞いていた。

オカルト性を担保する話はまだまだでてくる。
以降の三島は作風が変化したと多くの評論家が指摘する。だが、それはよい変化ではなかった。ふたたび奥野建男の言葉を引こう。
「作中の英霊たちの言葉は、それまでの三島なら絶対に書くことのない、定形的で陳腐な文章である。激烈な表現を用いながら、そこに文学者としての三島の心が少しも入っていない。まるで他人に書かされた『お筆先』のようだ」
霊魂に憑依された人間が自分の意識とは無関係に作品を創りあげる現象のことを、オカルトの世界ではオートマティスムという。
日本では「お筆先」「神がかり」とも呼ばれる。

強い思念を残して死んだ磯部の魂が、自分の気持ちを理解してくれそうな男に乗り移ったというのだろうか。もしそうであるなら、発信力と行動力を兼ね備えた三島は格好の相手だったにちがいない。

やはり霊と共振すると、あの世に呼び寄せられるのかもしれない。時空を超えて英霊たちと気脈を通じた三島は、文学から離れて政治的な傾向を強め、私設軍隊「楯の会」を結成し、自身の闘いに身を投じるようになっていく。
彼はもう、決起するほかなかったのだ。

・・・・・・・・続く

featured image:Shirou Aoyama, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由

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