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日露戦争の陰にモンテネグロ公国が日本への宣戦布告した逸話

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日本が現在のような近国家となったのは、260余年あまり続いた江戸幕府が1867年に大政奉還を行い政権を朝廷に返上し、その後に築かれた明治新政府によって大日本帝国が成立したからだと解釈されている。
大日本帝国は1894年の日清戦争、1904年の日露戦争、1914年からの第一次世界大戦、1941年からの第二次世界大戦(太平洋戦争)と、数多くの対外戦争に挑み1945年の敗戦によって、今の日本へと辿り着いた。

日清戦争では中国最後の清王朝、日露戦争ではロシア帝国、第一次世界大戦ではドイツ、第二次世界大戦ではアメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリア等の国々と直接矛を交えて日本は戦った。
これらの戦争では何れも戦闘を行った国々とは各々の講和条約を締結し終戦を迎えているが、なまじ直接の矛を交えなったばかりにそうした扱いがないまま放置されてしまった稀有な例もある。

今回はそうした不思議な関係、国際法上は実は今に至るも正式な処理が行われていないと思しき、モンテネグロの件について紹介してみようと思う。

目次

モンテネグロ公国の概要

モンテネグロ公国は実は2023年現在は既に無く、ヨーロッパのバルカン半島にかつて1852年から1910年迄の58年の間だけ存在していた、貴族を君主とする立憲君主制の小国であった。

モンテネグロ公国を建国したのはダニーロ1世で、1852年に自らの領地を基盤にモンテネグロ公を宣言し、当時その地域を収めていた宗主国のオスマン帝国と武力による対立が生じる事となる。
このダニーロ1世は志半ばにして1860年に暗殺にて世を去るが、その甥で後を継いだ二コラ1世はオスマン帝国への反攻を継続し、晴れて1876年にロシア帝国等の支援もあり独立を勝ち取る事に成功する。

二コラ1世は1905年に制定された憲法によって、叔父のダニーロ1世が自称し、その後を継いだ形の公(貴族)から、王へと地位を上げる事になり、これにより1910年には国自体もモンテネグロ王国へと変わった。
そうした歴史を辿ったモンテネグロだが、大日本帝国とロシア帝国とが1904年に日露戦争を開始した際には、支援を仰いていたロシア帝国の事実上の管理下に置かれていた。
その為、日露戦争開戦翌年の1905年にモンテネグロはロシア帝国の意に沿って大日本帝国へと宣戦布告を行い、当時の満州に一部で義勇兵を派遣したものの、実際の戦闘には関与しなった。

日露戦争は日本側の旅順攻防戦や奉天海戦、日本海海戦などの戦術的な勝利によって、アメリカのポーツマスで締結された講和条約で日本側の辛勝という形で幕を閉じる事になった。
しかしこのポーツマスの講和条約の席にも、実際の戦闘に及ばなかったモンテネグロは呼ばれずに終わり、その後同国が消滅を迎えた事もあり、そのままの状態が今も続いている形ではある。

その後のモンテネグロの移り変わり

モンテネグロ王国は後の1914年に始まった第一次世界大戦では、その大戦争のきっかけを作ったセルビアへの支援行っていた経緯から、その敵のオーストラリア・ハンガリー帝国の支配下に置かれた。
王たる二コラ1世やその一族はフランスへ亡命しつつ、再度の復権を企図していたが果たせず、以後はセルビアが統治され、更に1918年に成立したユーゴスラビア王国の一部に吸収されてしまう。

迎えた1939年からの第二次世界大戦においてはこのユーゴスラビア王国も枢軸国の支配下に置かれ、元のモンテネグロは一次イタリアが統治したが、枢軸国の敗北でユーゴスラビアの構成国へと戻った。
しかし1991年にはユーゴスラビア紛争が勃発、再びモンテネグロは不安定となり、1999年のコソボ紛争を経て、2003年に新しい暫定国家のセルビア・モンテネグロが成立する。

そして3年後の2006年5月に行われた国民投票の結果、モンテネグロは翌6月に分離独立が認められ、EUを始め日本もこれを承認、国際連合への加盟も行われ現在のモンテネグロへと行き着いた。

2006年のモンテネグロ独立に対する日本の対応

2006年6月3日にモンテネグロは独立を宣言したが、日本政府としてはそれを13日後の6月16日に承認し外務大臣政務官を派遣する対応を行い、外交関係を構築する事が実行に移された形である。
アメリカの大手通信社であるUPI通信は、日本がモンテネグロの独立を承認した6月16日、かつてのユーゴスラビアの首都・ベオグラードのラジオの内容を引用し、日露戦争の最終的な処理が行われる可能性を示唆した。
外務大臣政務官のモンテネグロへの派遣によって、国際法上は戦争状態のままであったとも言えるモンテネグロと日本との休戦協定の締結も一部で期待されていたが、日本の外務省はそうした動きを公表していない。

モンテネグロと日本との関係を巡っては日本自身のみならず、そうしたアメリカや旧ユーゴスラビア側からの日露戦争時の宣戦布告の後処理が残されているような捉えられ方が一部でされているようにも見える。
しかしこの件に関しては今や親露派の筆頭として、ロシア・ウクライナ戦争においてロシア擁護を続けるあの鈴木宗男氏が、2006年2月に提出行った質問主意書で日本政府の見解が確認されている。
鈴木宗男氏はその質問主意書の中で、当時のモンテネグロ王国が大日本帝国へ宣戦布告を行ったか否か、ポーツマス講和会議にモンテネグロ王国の代表が参加したか否か、更に両国の戦争状態の終了方法を問うている。

これに対する日本政府の回答は、当時モンテネグロ王国が大日本帝国に対し宣戦布告を実施したと言う事実そのものに対し、それを裏付ける根拠が確認されていないと、問題の前提からそれを認めていない。
その為、この問題はこれ以上の進展が起こる可能性はほとんどなく、今のモンテネグロも日本側も宣戦布告の事実を争う事も、最早考えられないと考えるべきなのだろう。

今後のモンテネグロと日本の関係には変化は起こるのか?

これまで見てきたようにかつてのモンテネグロ王国が大日本帝国に対して宣戦布告を行ったままで、国際法上は戦争状態が続いているのではないか、と言う問題は両国ともに支障がない事からこの状態が続くと思われる。
この問題に関しては単なる歴史上の小話として、今以上の展開を見せる事はなく進んで行くのだと思われるが、それにしても何故に鈴木宗男氏が2006年当時にこの問題を提起したのかの方が気になってしまう。

今やロシア・ウクライナ戦争で完全なロシアの代弁者となってしまったこの人物が、今後日本で支持者を拡大することなど考えられないと思うのだが、昔からスタンド・プレー体質は変わっていないのだと思い知らされる。
モンテネグロは2017年にNATO加盟を果たし、今はEUへの参加も目指してはいるが、中国の一帯一路構想の元でインフラ整備等に多額の融資が流入しており、その点には日本も注意を払うべきであろう。

featured image:njegos.org, Public domain, via Wikimedia Commons

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