関ケ原の恨みを戊辰戦争で晴らした毛利家?!
毛利家、正月の定例行事
家来「殿、今年こそ如何?」
藩主「否、時期尚早」
正月の毛利家では、江戸時代を通じてこんな遣り取りが定例となっていたと噂されています。
関ケ原で毛利輝元が西軍総大将となった為に、 毛利は中国数か国・118万石から周防長門・二国30万石弱(後の見地で37万石弱)に減封されました。
今年こそ徳川に意趣返しの兵を・・、という家来を、藩主が制するという遣り取りで、関ケ原の恨みを忘れまいとしたと伝わっていました。
長州藩の艱難辛苦
残念ながらこんな正月行事はなかったと、昭和5年生まれの17代毛利家当主は語っていますが、 減封された当時の毛利家中には、想像を絶する苦労があったのは事実です。
全体の収入が1/3から1/4程度に減ったのですから、家臣の放逐は毛利一門や直臣でも6割を超える厳しいものでした。 家内に留まった者も禄が1/5に減り、武具はおろか寝具など生活道具さえ売り払わなければならない程の困窮振りでした。
その上、幕府から続けさまに下命される、江戸城・名古屋城などの普請割り当ては藩の困窮に拍車を掛けました。 ほとんど生活さえ立ちいかない境遇に落ちた藩士たちの怨嗟が、強く徳川に向かった事は想像に難くありません。
そんな怨嗟が260年も続く?
「日にち薬」という言葉がある様に、人の意識は時間が薄めていきます。
戦後半世紀以上が経った現代の日本では、若い人の中には日本がアメリカと戦争をした事自体知らない人がいます。 しかし一方で、例えば大阪人の太閤ハン贔屓と東京に対する対抗心が、 大阪人の心の最深部に流れている事もあながち間違いではありません。
幕末、反幕府勢力の中でも長州が最も強硬な姿勢をとり続けた事の底流に、同様の隠れた意識があっても不思議はありません。
当時の長州人が自らが意識していたか否かに拘らず、ある意味それは長州人のアイデンティティの一つだったと考えられ、 二度にわたる幕府による長州征伐が、心の奥底に潜み流れていた徳川憎しの気持ちを湧き上がらせたのかもしれません。
因果報応は歴史の常です。
※写真はイメージです。
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