南北朝時代の悲運の皇子、護良親王とは?

皇統が南朝と北朝に分裂抗争していた南北朝時代。
後醍醐天皇の第三皇子である「護良親王」の辿った悲運の歴史を紐解く・・・

目次

南北朝時代

南北朝時代とは、その字の如く朝廷が南北に別れた時代。
57年間という長い期間、持明院統と大覚寺統という派閥に別れ争っていた動乱の時代です。
学校で歴史を習った際に少しだけ記憶にある、名前だけ知っている、という人が多いのではないでしょうか。

実際、私が通っていた学校でも大大的に取り上げることはありませんでした。
その中でも「後醍醐天皇」という人物の名前を知っている人は多いのではないでしょうか。
今回ご紹介する人物は、その後醍醐天皇の息子である「護良親王」という人物です。

作者不明, Public domain, via Wikimedia Commons

護良親王とはどのような人物?

まず、護良親王について説明していきましょう。
後醍醐天皇の息子(第3皇子)であり、後に征夷大将軍に任命されています。
また、若い頃には比叡山に入り、僧侶としても活躍しています。

『太平記』では、熱心に武芸の稽古に励む様子が描かれていることから、武芸に秀でた人物とされており、当時としてはかなり変わった皇子だということがうかがえますね。
足利尊氏との対立が激しくなり、父・後醍醐天皇の尊氏討伐の密命を受けた護良親王だったが、その件が尊氏に知られてしまいます。

尊氏は後醍醐天皇に謁見し確認したが、後醍醐天皇は「そんなことは命令してない。全て護良親王の独断によるものである。」といった発言をし、護良親王は捕まり尊氏へ引き渡され、そして鎌倉へ幽閉されてしまいます。
尊氏の弟である足利直義の命を受けた淵辺義博によって殺害され、28歳という若さで亡くなりました。

誰よりも親を恨んだ護良親王

実の親に裏切られ、濡れ衣を着せられたまま殺されてしまった護良親王。

『梅松論』では、「武家(足利尊氏)より君(父帝)が恨めしい」との供述が見つかるが、父の密命を受け、父と対立する足利尊氏を討伐し、父の立場を守ろうと行動した仕打ちがこれならば、誰でも激しい恨みに取り憑かれてしまうでしょう。
その恨みは激しく、護良親王を祀っている鎌倉宮は心霊スポットにもなっているみたいです。

実際に私も鎌倉宮に足を運んだことがあります。
明るく立派な神社ではありましたが、どこか物悲しい空気を感じました。
(この史実を知っているからなのか・・・)
武芸に秀でた皇子という非常に珍しく、激動の時代に飲み込まれ悲運の歴史を辿った護良親王。

今回は簡単にご紹介しましたが、興味を持っていただけたら幸いです。
ぜひ、鎌倉宮にも足を運んでみてください。

鎌倉宮
住所:神奈川県鎌倉市二階堂154
JR鎌倉駅から京急バス「鎌倉宮行き」終点下車目の前。

歴史が大好きなアラサー女子。
大学生時代には考古学を専攻しており、発掘調査などにも参加していた生粋の歴史オタクです。

eyecatch source:作者不明, Public domain, via Wikimedia Commons

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