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MSおばあちゃんの話

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私が務める介護施設に、98歳になるMSさんというおばあちゃんが入居されていました。
多少足腰が弱ってはいたものの、頭はしっかりされていて、リビングのテレビで終戦記念日のニュースが流れる時期なると、当時の話を色々としてくれました。
これは私が聞いた話の中から、特に記憶に残っているものを書き出したものです。

戦時中のある日、まだ女学生だったMSさんは、兵隊さんにお弁当を届ける手伝いをしていたそうです。
お弁当の中身は、麦や稗ばかりの握り飯と梅干し、それに水筒を持って、兵隊さんがいる『砲台』へと向かいます。

この『砲台』というのは、太平洋から飛んでくるアメリカの飛行機を攻撃するための施設の俗称で、高い山の上にありました。そこは現代でも砲台跡として残っている場所で、戦時中はそこに兵隊さんが何人も住み込みで警戒にあたっていたそうです。

今でこそ立派な道路が山を突き抜けるように通っていて、車で15分も走れば山頂までたどり着けますが、当時は道などはなく、険しい山をMSさんは2時間ほどで登ったそうです。土地柄、熊は出ませんが猪や猿に出会うと厄介で、特に猿は女と見ると襲ってくるので、猿避けのために形の悪いみかんを持っていったという話も聞きました。

砲台で番をしている兵隊さんたちも、どこにでもいる普通の人という感じで、戦争映画のように常にピリピリしている・・・なんてことはありません。MSさんも休憩がてら、田舎でしたので、秋にはそろそろ柿が食べたい、正月には餅が食べたい、といった普通の世間話に花を咲かせていたそうです。

ちなみに、MSさんは昼前に山に登り、放題にお弁当を届けた後、人里へ戻ったら今度は畑を手伝ったり、雑炊(当時は芋や野菜くずを集めて大鍋で煮ていた)作りを手伝ったりしていたそうで、当時の方の体力がいかにすごいか、思い知らされたような話でした。

MSさんは終戦間際、知り合いの兵隊さんや同級生たちと一緒に、学徒隊として小倉の工場へ働きに出ていたそうです。
知り合いだらけの中で、沖縄の「ひめゆり学徒隊」のような悲惨な体験というものは一切なかったらしいのですが、ひとつだけ、今も記憶に残っているものがあると話してくれました。

それは小倉から見えたキノコ雲で、今になって思うと、あれは長崎に落とされた原子爆弾によるものだったと。
当時のMSさんには当然そんなことはわかりませんが、一緒にいた兵隊さんが『あの雲の下にいたら死ぬ』と話していたらしく、どうやら先に落とされた広島の原子爆弾の話も、少なくとも兵隊さんの方には伝わっていたらしいです。

以上が私がMSさんから聞いた話で、印象に残っていたものです。

※画像はイメージです。

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