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インパール作戦を実行した将軍 牟田口廉也の生い立ち

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1944年(昭和19年)のインパール作戦、この作戦を実現し、指揮をした将軍が牟田口廉也です。
悲劇の作戦を実行した牟田口廉也とはどんな生い立ちだったのでしょうか。

目次

秀才な少年時代

インパール作戦で日本軍の司令官である牟田口廉也
1888年(明治21年)に佐賀県で鍋島藩の士族である福地家の次男として生まれた。
小学生の時に母親の実家である牟田口家の跡取りになる為に養子に出され、牟田口の姓を名乗るようになります。

牟田口の少年時代は活発である一方で、名門中学校や陸軍幼年学校に入校できる学力も育っていた。
陸軍士官学校を優秀な成績で卒業し、当時は難関であった陸軍大学校も一度の受験で合格した。
成績を上位または中ぐらいで卒業した牟田口廉也は、参謀本部や陸軍省で勤務する官僚型の軍人として歩む事になります。

前線の指揮官となる

そんな牟田口の転機は陸軍の派閥である桜会や一夕会に加わり、革新運動に賛同する一員となった事だった。
陸軍の政治活動に加わった為に、5.15事件(1932年・昭和7年)と2.26事件(1936年・昭和11年)で事件を起こした皇道派であると見られた牟田口
陸軍中央から中国大陸にある支那駐屯歩兵第1連隊の連隊長に異動となった。

指揮官として初めての前線勤務となった牟田口は大きな事件の当事者となります。
それが1937年(昭和12年)7月7日に起きた盧溝橋事件です。
現地部隊より、中国軍からの銃撃を受けたと報告を受けた牟田口は、戦闘の許可を出します。
一方で現地に将校を送り、中国軍側との交渉もしている。

牟田口は自衛戦闘と、事態収拾も同時に行っていたのです。
しかし現地での休戦が結ばれた後、中国軍の撤兵が進まないのを協定違反として、牟田口は攻撃命令を下してしまいます。
この事から牟田口は自分が日中戦を起こしたと思うようになります。

常勝将軍

その後は関東軍の第4軍参謀長、予科士官学校校長を経て、1941年(昭和16年)4月に第18師団の師団長となります。
牟田口は第18師団を率いて、太平洋戦争ではマレー半島とシンガポールにビルマの攻略作戦を成功させた。
牟田口は師団長であるものの、前線によく出て指揮や兵達を激励したとされる。

1943年(昭和18年)3月に第15軍司令官となります。
しかし1944年(昭和19年)3月からのインパール作戦の失敗で予備役に、翌年の招集で復帰すると再び予科士官学校の校長に就任して終戦を迎えます。
戦後は戦犯として逮捕されるも不起訴

帰国後はインパール作戦失敗について謝罪をしていたものの、次第に他者を批判し自己弁護のような態度を見せるようになります。
1966年(昭和41年)に77歳で亡くなりました。

参考資料
「牟田口廉也とインパール作戦」 関口高史著 光文社新書

featured image:Imperial Japanese Army, Public domain, via Wikimedia Commons

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