これは私が老人ホームに勤め始めたばかりの時、入居されていたおばあさんが亡兄の仇を討つために志願兵になった話しです。
ついに赤紙が届く
おばあさん(以下Aさんと書かせてください。)には、5歳年上のお兄さんがいらっしゃったそうです。
Aさん当時13歳、お兄さん18歳の時にお兄さん宛に「赤紙」が届きました。
当時Aさんの父は既に他界、お兄さんが妹であるAさんとAさんのお母さんを経済的にも精神的にも支えていたそうです。
そんなお兄さんにも、ついに出兵の日が来てしまいAさんは数日間とても落ち込んだと話されていました。
数日後、AさんとAさんのお母さん、近所の人と一緒にお兄さんの出兵を見送りました。
Aさんはこの時のことを「不思議とその時は悲しくも寂しくもなかったのよ」「夢みたいな、現実じゃないような感覚だったよ」と話されます。
帰ってこなかった兄
お兄さんの出兵見送りから約6か月後、自宅に憲兵の方が来られました。
要件はお兄さんの遺骨と遺品を届けに来てくれたそうです。
憲兵さん曰く「お兄さんは満洲へ到着直後に敵軍の強襲を受け、運悪く亡くなってしまった」と。
Aさんのお母さんはその夜一晩中、泣いていたそうです。
しかしAさんはある決心をしたそうです。
Aさんはお母さんへこう言ったそうです。
「私はお国のためじゃなくて、兄さんの仇を討つために兵隊になるよ」と。
Aさんのお母さんをはじめ親族一同は「女なんだから兵隊なんて無理よ」「すぐに死んでしまう」など言いながら猛反対したそうですが
Aさんの意思は固く、反対を押し切って、そのまま志願兵となったそうです。
志願兵として
志願兵になってからAさんはまず横浜にある武器工場で武器の素材づくりをしながら、竹やりなどを使った戦闘訓練を行ったそうです。(ちなみに周りの人は同い年ぐらいの男の人がほとんどで、女の人はAさんのみだったそうです。)
本来ならいち早く戦地へ赴きたかったAさんですが、上官からは
「まだ順番じゃない」
「まずはここで訓練を積んでから」
と言われ続けます。
その横浜の武器工場で1年近く過ごしたのち、上官より「順番では次で出立になる」と伝えられたそうです。
Aさんと同じグループの人達は皆、悲壮な表情をしていたそうですがAさんは違いました。『やっと兄さんの敵討ちに行ける』と強く思っていたそうです。
訓練では熱が入りすぎてしまい、組手相手に酷い怪我を負わせてしまうほどに・・・
思い通りにはいかないのが人生
しかしAさんは結局戦地へ赴くことはありませんでした。当時1945年8月15日、天皇陛下の「玉音放送」のラジオを武器工場で聴いたそうです。
Aさんはこの時のことを「思い通りにはいかないのが人生だね、まったく」と話されます。
Aさんはその後、横浜から意気消沈しながら実家へ帰っていったそうです。
実家に着くとAさんのお母さんが「あんただけでも無事に戻ってきてくれて本当によかったよ」ととても喜んで出迎えてくれたそうです。
※写真はイメージです。
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