尼僧ではなく僧侶の次郎法師の誕生。
戦国乱世の時代、強き者、強き家、強き国人領主、強き大名が生き残れる時代、そんな時代は男でなく女も勇猛果敢に刀槍を振るい、ときには弓矢を放ち、ときには鉄砲でさえも放つ。
武蔵国忍城主・成田氏長の娘の甲斐姫も小桜縅の甲冑を身に付け果敢に立ち向かい、播磨三木城主・別所長治の叔父・吉親の妻の波も白葦毛の馬に乗り二尺七寸(約82cm)の太刀を振りかざして敵陣を攻撃する夜襲隊に加わり戦います。
備中常山城の鶴姫は落城前に侍女34人とともに長刀をかざし敵陣に挑み見事な最後をとげ、池田恒興の娘のセンは女鉄砲隊長となっています。
こんな戦国乱世の時代に井伊直虎も家名を守るために立ち上がります。
史料不足である井伊直虎には謎多き人物です。
直虎の両親、直盛夫妻は直虎を愛しながら結局、直盛夫妻には男子ができなく子供も直虎1人だけでした。
男子に恵まれなかった直盛は後継者をどうするか悩み、悩んだ末に1人娘の直虎に婿をとり、その者を後継者とすることが最適と考え一族皆の意見が一致、そして白羽の矢がたったのが井伊直満の息子の亀之丞(後の直親)でした。
直満は直盛の父の直宗の弟にあたり、亀之丞は直虎と年齢も近く幼馴染であり、気心も知れていていい夫妻となる、そういうことから亀之丞と直虎は許嫁となかったのです。
しかし、この婚約話を面白く思わない人物が1人、井伊家の家老の小野政直(道高とも)、政直と直満は犬猿の仲で、しかも政直は今川氏のいきのかかった人物、政直は今川義元に讒言、直満・直義兄弟が謀叛を企ていると虚偽の密告をして殺害して、政直は息子を直虎の許嫁にして、井伊家を牛耳ることを考えました。
政直はナンバー2の家老では物足りないようだったようです。
直満・直義兄弟が殺害されたのだから、直満の息子の亀之丞もただで済むはずがない、案の定、亀之丞にも政直の魔の手が忍びよります。
直満の家老・今村藤七郎は不穏な空気を屋敷の外から感じ、とっさに亀之丞を叺(かます)というワラで作られた穀物を入れる袋に入れると、何食わぬ顔で刺客の間をすり抜けて井伊谷の山中の黒田郷に隠れ住み、そこが安泰ではなくなると龍潭寺の南渓(なんけい)和尚のつてで南信濃の伊那谷に松岡城主・松岡貞正の領域にある松源寺に匿われることとなりました。
幼いながら直虎は許嫁の無事を祈るばかりで、亀之丞の潜伏先、南信濃伊那谷松源寺を知るのは井伊家でも南渓和尚と直盛だけ、許嫁てある直虎には無事を伝えていたが潜伏先は伝えていない、どこから漏れるか分からないため、それは亀之丞の潜伏先を小野政直に知られる訳にはいかないからでした。
幼い直虎は仏前で亀之丞の無事を祈る毎日、直虎とはどんな女の子だったのか容姿や性格は一切伝わってなく、ただ後の行動から察するに判断力、政治力などが備わり芯が強く自分自身というものをしっかり持った女性に成長したことは分かります。
直虎の亀之丞への思いとは裏腹に、亀之丞は南信濃伊那谷、地元島田村の代官・塩沢氏の娘を娶る、戦国当時の男子は15才を気に元服、初陣、結婚という三点セットとも云われるものがあり、亀之丞も15才となって元服、松源寺を出て松岡城近くに家を持ち、所帯をもったのだろうか、「寛政重修諸家譜」によれば直親(亀之丞)の子供は2人で「女子」と「直政」とあるが、井伊谷に直親が戻った際に連れ帰ったのは女の子供だけ、塩沢氏の娘に生ませた2人の子供うち、男の子供は伊那谷に置いて来たようです。
さすがに直虎も許嫁である亀之丞が妻を娶り、子供までもうけたことを知る、そして衝撃を受け何日も寝込み、両親の直盛夫妻から別の男子を婿養子にとのすすめもあったが、直虎は恋い焦がれる亀之丞、心配に心配を重ね生きていて欲しいと願う日々で亀之丞への愛が深まっていた中、裏切られた傷は深く、石よりも硬く、意地となり生涯操を貫く決意を固め、出家して次郎法師となったのです。
直虎は「許嫁の亀之丞は私を裏切りました。しかし私は操を貫き通します」と両親の直盛夫妻に宣言、直盛夫妻は直虎に新たな婿養子を迎えて井伊宗家を守って欲しいと思いとどまるように説得しますが、直虎の決意は硬い、彼女は亀之丞を婿養子と決めている以上、それを変える必要はないとして、頑と撥ね付け、直盛夫妻は娘の意志の強さ頑固さに呆れて引き下がるしかなかったようです。
直虎の出家の動機を「井伊家伝記」は「御菩薩の心深く思召す」と仏への信仰心から出家を志したとするだけで亀之丞の裏切りには触れていない、しかし結婚適齢期が過ぎることの焦りが、信仰心へと結びつき出家を決意したことは明白でした。
直盛夫妻は南渓和尚に頼み直虎に還俗の道を残して欲しいと相談、南渓和尚も井伊宗家のことを思い考えます。
当時、尼僧になってしまったら還俗することはできませんでした。
しかし男子が出家して僧籍に入っても還俗は許されていたのはなぜか、それは男子の場合は戦や病で当主が亡くなってしまったりした場合に、代わりとなる者が僧籍の者であった場合もあり男子の場合は還俗が許されていましたが、女子の場合は尼僧となり僧籍に入ると還俗は許されていないのは男子と女子の立場の違いなのでしょう。
とにかく直虎に還俗する道を残すことを南渓和尚は考えます。
それは直虎の血は貴重であったためです。
当時の井伊家の事情として直満と直義兄弟が家老・小田和泉守の讒言で殺害され、直盛以外の男子は亀之丞だけ、しかも井伊宗家の血を引く者は直虎だけ、この状況で直虎が尼僧になってしまったら、井伊宗家の血を引く者の継承が途絶えると考えた南渓和尚は、井伊家総領は代々「備中次郎」を名乗ってきたことを思い出す。
これを直虎の僧名とし直虎は尼僧ではなく僧侶となる、いわば苦肉の方便としかいえないですが、それは直盛夫妻をも満足させるもので、ゴタゴタした中、直虎は僧籍名の「次郎法師」と名乗ることになったのです。
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