井伊家をお家断絶の危機から救った女城主・井伊直虎(2)

桶狭間での父井伊直盛の戦死、井伊直政誕生。

出家して次郎法師の名をもらった直虎だが、姿かたちは僧侶ではなく、完全な尼僧の装束でした。
大きく変わったのは龍潭寺に日参するようになったこと、直虎が寝起きする井伊谷城の居館から龍潭寺までの道のりは900mほど、ゆっくり歩いても15分ほどかかる道のり。
悪天候の日は別にして雨の日も休むことなく警護の侍を従えて通い、南渓の弟子となり禅の道を学び座禅して雑念を取り払い、直虎は亀之丞にかき乱された自分を自ら静め、落ち着いた日常を取り戻します。

亀之丞の命を狙う小野和泉守が病没したのは天文23年(1554年)のこと、直虎の出家と和泉守の死、どちらが早かったのだろうか?ほぼ同じ頃かもしれません。
井伊家にとって和泉守の死は、のどに刺さった骨がとれた思いだったようで、それほど今川氏を背後におく和泉守の力を井伊家は恐れていました。

和泉守の死は南信濃伊那谷いる亀之丞にも知らされ、ちょうどその頃、武田信玄の伊那谷侵略が開始されていた頃で亀之丞を保護する松岡氏や周辺の国人領主たちは、圧倒的な軍事力の武田軍に戦わずに降伏、松岡氏も同様で、そうした情勢の中、亀之丞と今村藤七郎はいつまでも松岡氏の庇護を受けていられないと思い、そんな折、直盛から帰国を促す使いがやって来ます。

亀之丞と今村藤七郎は天文24年(1555年)3月、遠江井伊谷に戻りました。
戻った亀之丞は娘は連れていましたが、妻と息子は連れてなく、伊那谷に置いて来たようです。

このことに直盛夫妻は少し安堵し、隠悽(いんせい)先で女と交わり子を生ませ、10年を超える年月を思えば仕方ないことだと思い、直盛夫妻は直虎が亀之丞の行為に理解を示し、思い直して還俗して亀之丞と結婚してくれることを切望、そのために僧侶名の次郎法師を名乗らせたのです。

しかし直虎は「私は出家した身、還俗など致しません。亀之丞様との結婚など思いもよりません」と突き放し、直盛夫妻も驚くほど、直虎は頑固で諦めるほかなかったようです。
直虎は、幼い時より知る亀之丞と添い遂げたいとの気持ちは強くあったようですが、それは過去のことと振り払います。

亀之丞の苦しい逃亡生活の日々は理解できるが、許嫁という自分がいながら、他の女と交わり2人の子供までもうけたことは、どう考えても許せる直虎ではなかったようで、彼女は仏の道一筋に生きると決め誓ったようです。
直盛は娘の還俗を諦め、そして後継ぎは亀之丞を養子に迎え、直親の名を与えて一族の奥山因幡守朝利の娘と祝言を挙げさせました。

こうして直親は井伊宗家を継ぎ、そして運命の年が幕を開けます。

永禄3年(1560年)、今川氏そして井伊家にとって波乱となる年が訪れました。
直親の妻の懐妊がわかった5月、喜びに包まれますが、この5月は井伊家は奈落に突き落とされるのです。
5月11日、軍装も麗しく、蹄の音を響かせて直盛が率いる井伊家の軍団は一族から選りすぐりの武勇の士が従い、井伊谷を後にしました。

総出の見送りの中に直親や直虎の姿があり、直親は貴重な跡取りで、直盛と直親の2人が出陣しては万が一のとき、井伊家の危機となり、直盛は直親を軍団に加えずに、留守をまかせたのです。
前年より今川義元は、征西の準備をしていて、将軍を補佐し、あわよくば天下の実権を握ろうと、上洛するつもりで西三河に手を出す尾張の織田を降し尾張制圧の出陣でした。

この戦いで井伊直盛率いる井伊部隊は、先陣を命じられ前日に駿府館を出陣した先発部隊に合流、義元本隊は5月12日に駿府館を出陣、今川軍の総勢は公称4万と伝わりますが、実際には2万5000ほどの軍勢でした。

義元は5月8日に三河守に任じられたばかりで、三河を正式な支配者として朝廷からも認められ、上機嫌の門出。
井伊直盛ら先発部隊は15日には池鯉鮒(ちりゅう(現愛知県知立市))に17日には鳴海方面に至り、付近の村という村に放火、義元本隊は18日に本陣を沓掛(現愛知県豊明市)に置き、その夜に大高城に兵糧を入れ19日明け方に今川軍は織田方の砦を襲い、松平元康(後の徳川家康)苦戦して丸根砦を落とし、隣接した鷲津砦も朝比奈泰朝が落とします。

沓掛から大高に向かう途中、義元は丸根・鷲津両砦を落としたとの報せに気をよくして、桶狭間で乗っていた輿を降りて休息しました。
そこに別の戦いで討ち取った3人の首が届き「余の旗の向かうところ、鬼神もまたこれを避ける」と相好を崩しました。
昼の弁当を食べようとした義元のもとに、近所の寺社方から祝いの酒が届き、義元は馬廻りの面々にも酒を呑むように勧め、皆が武器を置き緊張を解きくつろぎ、酒肴の休息となります。

義元本隊から、およそ1km前方に先手衆として井伊直盛ら有力武将の部隊がありましたが、彼らの部隊も休息をとっていました。
夕方、夕立となり風雨が急に強くなり、あっという間に通り抜け、時間は午後2時ごろ真上の空は既に晴れていました。
織田信長の2000の織田軍は、二手に分け、一手を直盛らがいる先手衆に攻めかかり、もう一手は義元本陣を直撃しました。
「松平記」に信長軍は鉄砲を撃ちかけて来たとあり、それは今川勢にとって思いもよらないことで、ことごとく敗れたと記述されています。

義元は刀を抜いて、突きかかって来た服部小兵太の槍を切り折り、さらに相手の膝の口を割る力戦をしますが、助っ人に来た毛利新助に首を取られてしまいます。
有力武将たちも次々に討たれてしまいます。

「井伊家伝記」は「近習60余人残らず、或いは戦死、或いは切腹、皆々傷害なり、直盛公右人数の中なり」とあり「直盛公切腹に臨んで奥山孫市郎の御遺言仰せ渡され候は、今度不慮の切腹是非に及ばす候。
その方介錯つかまつり候て、亡骸を国へ持参つかまつり、南渓和尚焼香成され候様に申すべく候。
さてまた井伊谷は小野但馬が心入、心元無く候故、中野越後(直由)を留守に頼み置き候。

此以後猶以て小野和泉と肥後守(直親)主従の間心元無く候間、中野越後守へ井伊谷を預け申し候間、時節を以て肥後守引馬へ移し替え申す様に、直平公に委細に申し可き旨仰せ渡され、是非なく奥山孫市郎、直盛公の御亡骸を御介抱つかまつり、井伊谷へ帰国申し候。

「井伊伝記」は直盛が死に際に残した遺言をそう伝えています。

つまり小野但馬は二心あって心もとないので、井伊一族である中野越後守直由に留守を頼んで来たから、直親と但馬守主従の間が心もとないので中野越後守に井伊谷を預けたい、時節をみて引馬城へ直親を移したいので、このこと祖父・直平に伝えて欲しいといい、奥山孫市郎に介錯させて切腹しました。

とあるが、引馬城は今川家臣の飯尾氏の城であったこと、かつて井伊家が斯波氏、大河内氏と連携して今川氏と戦い敗れた後に引馬城は今川氏のものになり飯尾氏が入っていたため、井伊直平が城主をつとめたことはないため、この辺は誤伝と推測します。

この桶狭間の戦いで戦死した井伊部隊の者は、井伊直盛だけではなく、多くの家臣が戦死、井伊一族の奥山家では奥山彦市郎、太郎次郎親秀、彦五郎らが、同じ一族の上野家では惣右衛門、源右衛門、彦市郎、孫四郎らが、小野家も既に亡くなっている和泉守には6人の息子がいて、嫡男・但馬守は家老として井伊谷に残ったが、その弟の玄蕃、源吾が、井伊家の主だった家臣16人が直盛に殉じ、おそらく井伊家の戦死者は200人くらいになったと思われます。

逃げ帰った兵士などから戦況を聞いて井伊谷は悲鳴と嗚咽に包まれ、直虎もまた父の死に茫然とし、母と抱き合い泣いたようです。
そして龍潭寺に籠り亡くなった人々の魂の平安を、ただひたすら仏に祈るしか直虎には術がなかったようです。

直盛享年55才(「寛政重修諸家譜」では35才)、亡骸は龍潭寺に戻り、直盛共に散った者たちの葬儀が執り行われ、直虎は南渓の弟子として涙を抑え必死に経文を唱えました。
直盛の遺体は龍潭寺に葬られ、亡き夫に寄り添いたいと直虎の母は南渓のもとで出家、松岳院殿壽窓祐椿(しょうがくいんでんじゅそうゆうちん)の法号をもらいます。

龍潭寺本堂の山門が当時はあり、その山門の石段を下った右側は、祐椿と称されるようになり、直虎の母は松岳院という庵を結んで墓守となりました。
そして悲しい年が明けた永禄4年(1561年)2月9日、直親に男子が誕生、幼名を虎松と名付けられたこの男子こそ、後の徳川四天王の1人となる井伊直政です。


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