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井伊家をお家断絶の危機から救った女城主・井伊直虎(3)

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井伊家に再びの悲劇、遠州怱劇、掛川で井伊直親謀殺される。

桶狭間の悲劇が起きた年末さらに由々しき事件が井伊家を襲う、龍潭寺古文書に「永禄3年12月22日、奥山朝利、小野但馬守により殺害される(武藤全裕著・井伊氏・龍潭寺関連年表より)」とあります。

朝利(親秀とも)の妹や娘の嫁ぎ先は井伊家と深い関係の家ばかりで、新野左馬助親矩の妻は朝利の妹、そして「奥山家古代記」によれば、朝利には8人の娘がいたが長女は井伊直親と結婚、二女は井伊谷を直盛の遺言で預けた中野越後守直由の妻、五女は井伊谷三人衆の1人で直親に仕える鈴木三郎太夫重時と結婚していて、なんと三女が小野但馬守の弟の小野玄蕃朝直に嫁いでいました。

そんな関係がありながらも、あえて但馬守が凶行に及んだ動機を推察すると、井伊家分家の中で最大の実力者が奥山氏、その当主の朝利が婚姻により、有力家臣の間に入り込み、権力を持ち、桶狭間で死んだ直盛に代わり井伊宗家を支配することを但馬守は恐れたのです。

かつて父・和泉守は直満の息子・直親と直虎が結婚することで、直満が大きな権力を握るのを恐れ殺害、今度も同じ動機といえ、あくまでも井伊家補佐役の一番は小野家でなければならない、父・和泉守の想いは、そのまま子の但馬守に引き継がれ、禍の芽は早く摘み取るにこしたことはない、それで讒言の内容は不明ですが、今川氏真に何かを訴えて、氏真の了解のもとに殺害したことは間違いなく、周囲は手が出せない状態で、まさに小野但馬守は井伊家にとって恐るべき存在でした。

そして桶狭間での悲劇、それは今川氏も同様で当主であり東海の弓取りとも称された今川義元の死は今川氏を震撼させ、今川氏に従属していた遠江、三河の武将たちを動揺させ、松平元康を初め今川氏に与していた武将たちは、嫡男・氏真に義元の弔い合戦を勧めますが、氏真が動こうとしませんでした。

氏真は連歌、和歌さらに蹴鞠は上手で、酒宴遊興にばかり心を寄せて、政治の道には疎く、父・義元の敵討ちもできない暗愚な後継ぎと馬鹿にされるようになり、今川氏に叛く者が増えはじめます。

その最もたる者が松平元康で桶狭間の直後、徳川家康と名を改め、織田信長と勝手に和睦、永禄4年(1561年)1月、尾張清須城で信長と会い同盟を結んで、そして鵜殿長照の三河西郡城(蒲形城)を攻略、長照の子氏長・氏次兄弟を生け捕りにして、その2人の母は義元の妹、氏真にとっては従兄弟で、目的は駿府館に半ば人質として置かれる妻・築山殿と娘・亀姫、そして嫡男・竹千代を奪還するためで「三河物語」は家臣の石川数正が八の字に張った大髭も得意げに、4才になる竹千代を鞍の前に乗せて、岡崎城に入る姿を描写、すぐ後ろには築山殿と亀姫の乗る駕籠が続き、1年9ヶ月ぶりに家康は妻子と会うことができました。

ですが、この喜びの裏で築山殿の父である関口親永は、家康の義父であるため氏真に去就を疑われ、駿府屋敷で妻(井伊直平の娘)と共に切腹を命じられて死ぬという悲劇がありました。
築山殿の母方の祖父は井伊直平、井伊家を継いだ直親にとって築山殿は従姉妹で、このため家康に親近感をもち、直親は時折、家康のいる岡崎城を訪れるようになり、築山殿と語らうようになります。
先祖たちの辛酸を思うとき直親の心は親家康で反氏真となっての行動でしょう。

「井伊家伝記」には直親と家康が遠江に発向する密談がされたと記してあり「直親公権現様(家康のこと)へ御内通され候が直政公を御取り立ての根本也」となっています。
今川のタガが緩み、遠江の国人領主たちは、新たな主人を捜しはじめ、遠江は草刈り場となり、武田信玄の目が遠江に向くことは決定的、信長と同盟した家康も三河から当然、遠江を狙いいくことは間違いなく、そうなれば政局に疎い氏真も見てみぬふりはできない、混迷の時が目の前に迫る井伊家もどうなるかわからないと南渓和尚は思い、打てる手は少しでも打っておこうと考えます。

今川義元を養育し、徳川家康をも教えた太原雪斎がそうであったように、曹洞宗、臨済宗の禅僧たちは、ただ禅を極めるだけでなく、兵法の書にも精通、上杉謙信は幼い頃に林泉寺にて天室光育(てんしつこういく)から朝夕の勤行、行鉢の儀式、日常の坐作進退を厳格に叩き込まれると共に、幅広く学問を学び、また伊達政宗も幼い頃に教えを乞うた虎哉宗乙(こさいそういつ)という存在、南渓和尚も彼らに劣らない博学で、才知に富む禅僧、彼は次郎法師と命名した総領家の娘をもっと鍛えようと、直虎に目をかけ禅の修行だけでなく漢籍にも目を向けさせ、また武道の鍛練もさせます。
当時、禅寺には武勇に優れた禅僧は、たくさんいて南渓和尚も武勇に長け、その弟子たちも武勇に優れ龍潭寺には、たくさん存在し、直虎も南渓の弟子たちと刀槍の鍛練をし、おそらく出家した母・祐椿を相手に長刀の稽古もしていて、また馬に乗って侍女と山野を駆けめぐったことでしょう。
直虎は、南渓和尚によって心身ともに鍛えられ、気丈なだけでなく、しっかりとした判断力と行動力を身につけていきました。

そんな中、直親と小野但馬守との亀裂は深まり、南渓和尚の気がかりは確実に迫りつつありました。
直親と小野但馬守の遺恨は父親同士の遺恨が、息子同士にも、そのまま引き継がれています。
城代の中野直由が井伊谷を預かっていることにより、何とか遺恨が表面に出ていないだけです。
ですが小野但馬守は、徳川家康に傾倒する直親が、だんだん目障りになって来ています。

何しろ小野家は今川に忠誠を誓い、井伊家を威嚇、隠然たる勢力を保持してきたのですから、織田信長と同盟を結び、今川氏と手切れした家康の三河での領土拡大に国衆が味方、「三州過半錯乱」「岡崎逆心」と今川側がいう騒乱は、永禄5年(1562年)から隣接する遠江にも飛び火、今川氏真をして「遠州怱劇」と呼ばしめる事態に突入するのです。

井伊家に遠州怱劇のタネを持ち込んだのは、獅子心中の虫といえる家老の小野但馬守、「井伊家伝記」には「小野但馬急に駿府へ罷り下り、今川氏真へ讒言申し候は、肥後守直親は家康公・信長両人へ内通、一味同心仕り候。近日遠州発向の為に、先勢の人数遣わされ候。追々大勢参り候風説夥しく候。遠州は信長・家康公両人の手に入り申す可しと、委細に訴え申候、今川氏真大に驚き、則、早々出馬、直親公を糾明、相攻め申す可き由にて、遠州掛川城主朝比奈備中守に先手申し付けられ候」
小野家は父の和泉守政直が直満・直義兄弟を讒言したように、またもその子・但馬守道好が、直満の子の直親を訴えたのです。

これに氏真が驚き、ただちに井伊谷に軍勢を出そうとしますが、必死にとどめた者がいました。
新野左馬助親矩で、彼は遠州東部新野郷(現・静岡県御前崎市新野)の地頭で、今川氏の一族、はっきりしませんが今川了俊の五男が新野を名乗り、その子孫とされ、今川の目付家老として井伊家に遣わされ、井伊谷に移り住んだと推測します、小野家が井伊家を散々痛みつけたのとは反対に、新野家は井伊家と和合、婚姻関係を結び、左馬助の妹は直虎の母で、つまり直盛と結婚、また自らも井伊家一族の奥山因幡守朝利の妹を妻として、井伊家と強い絆で結ばれています。

この左馬助が「小野但馬の申すことは信用できず、何かの間違いである。直接、直親を呼んで真偽のほどをただすべきだ」と、必死に氏真を説得したために、出陣は取り止めます。

しかし氏真は左馬助が井伊家寄りであることを知っており、すべてを信用していたわけではなく、むしろ小野但馬守の言葉を信用、零落が著しい今川氏にあって、氏真は疑心暗鬼に陥っていて、疑わしきは罰することが最善と考えています。
そんな氏真の心中を知らない、直親は申し開きするために、駿府に出向くことをきめました。

「行けば殺される」と止めた家臣も多くいましたが、直親は家康と誼は通じたが、家康もかつては今川家臣であり、築山殿は自分とは縁戚ながら今川氏の人間、自分には今川氏への逆心の気持ちはないことを訴えれば、氏真はわかってくれると信じていました。
直虎は直親が駿府に出向くことを知り、不吉な予感がしていて、直親に駿府に出向いて欲しくありませんでしたが、直虎には直親を止めることはできませんでした。

直親と家臣18人が井伊谷を立ちました。
永禄5年(1562年)3月だったか12月だったかは定かではありませんが、通説に従えば12月14日、直親一行が駿府まで道半ば遠江掛川城下も近いと思った時でした。「井伊家伝記」は「掛川御通りの節朝比奈備中守取り囲み一戦に及び直親主従共粉骨を尽くすといえども、無勢故終には傷害成され候」と記し、氏真の命令を受けた今川氏重臣の朝比奈泰朝により直親は謀殺されてしまいます。
享年27才でした。
直親の死により井伊家は再び滅亡の危機を迎えるのでした。

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