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帝国海軍において評価が分かれる「南雲忠一大将」

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当時の大日本帝国とアメリカを主体とする連合国とが、その後の国家の帰趨を賭して行った戦いは、前者では大東亜戦争、後者では主として太平洋戦争と呼ばれ、周知のように連合国の勝利で幕を閉じた。
この戦争では何れも当時の世界三大海軍国と称された、大日本帝国、アメリカ、イギリスが海軍同士の直接の海戦を行った事でも著名だが、その中心はやはり日本とアメリカの対決にあったと言えるだろう。

大日本帝国海軍の指揮官としては、開戦時に連合艦隊の司令長官を務めた山本五十六大将の知名度が群を抜いているとは思われるが、其れに次ぐ人物と言えばやはり南雲忠一大将が挙げられるのではないだろうか。
南雲忠一大将と言えば、開戦劈頭の真珠湾攻撃には大日本帝国海軍の第一航空艦隊司令長官として大戦果を挙げたものの、翌年のミッドウェー海戦では主力航空母艦4隻を一度に失った敗軍の将の印象も強い。

今回はそうした経歴から、後年の評価は人によってかなり分かれる南雲忠一大将について、及ばずながらその足跡をかいつまんで紹介して見たいと思う。

目次

大日本帝国海軍の軍人としての南雲忠一の生い立ち

南雲忠一大将は1887年3月、幕末までは旧米沢藩で中位の武士で御扶持方を務め、明治新後には郡役所書記を務めた父・南雲周の6人の子の次男として現在の米沢市に生を受けた。
米沢藩は1600年に生起した徳川家康の率いる東軍と、石田三成の率いた関ケ原の戦いで前者が勝利を得た後、石田三成側に与していた上杉家が大幅な減封となりつつもで残されたもので、幕末も江戸幕府側に立った。

南雲忠一大将は18歳になる年の1905年に海軍兵学校に進み、3年後の1908年にその36期生として優秀な成績で卒業、少尉候補生として巡洋艦「宗谷」の乗組員となって海軍軍人のキャリアをスタートさせた。
因みに山本五十六大将は、その4年前の1901年に32期制として海軍兵学校に入学、1904年に少尉候補生となっていたが、翌1905年には当時開戦中だった日露戦争に装甲巡洋艦「日進」の乗組員として従軍している。

南雲忠一大将はこの4年の差で日露戦争への従軍には至らなかったが、1918年12月に海軍大学校の甲種18期生となり、1920年にはここを次席と言う好成績で終え、33歳にして同年12月に少佐を拝命するに至った。

太平洋戦争までの南雲忠一大将の立場

南雲忠一大将が海軍大学校の甲種18期生となった前月の1918年11月、1914年7月から凡そ4年4ケ月に及んだ第一次世界大戦が終戦を迎え、日本は一応戦勝国となったがこの戦争の惨禍から世界は海軍の軍縮に動いていた。
その手始めが1923年から発効されたワシントン海軍軍縮条約で、第一次世界大戦の戦勝国たるアメリカ・イギリス・日本・イタリア・フランスの5ケ国が海軍の主力艦の数量と排水量について軍拡抑止の制限を結んだ。

この流れは1930年のロンドン海軍軍縮条約、更に1936年の第二次ロンドン海軍軍縮条約で強化されたが、南雲忠一大将は既に1930年頃には大日本帝国海軍内でこうした海軍軍縮条約に反対する姿勢で知られるようになっていた。
逆に山本五十六大将などは1919年4月からアメリカのハーバード大学に凡そ2年程公費留学を経て、同国の圧倒的な工業力を実感していた事もあり、こうした海軍軍縮条約には賛同しており、立場は異なっていた。

但し1931年10月には南雲忠一大将は、海軍軍令部の第一斑第二課長と言う要職についており、大日本帝国海軍と言う巨大な組織の中で海軍軍縮条約に賛成派と反対派の勢力は、かなり拮抗していた感がある。
そして日米の開戦が迫る中、南雲忠一大将は先ず1938年11月に第三戦隊司令官の職に就き、次いで1941年4月には第一航空艦隊司令長官となり、本来は水雷戦畑を歩んできた中で意外な人事とも映らくもない

日米の開戦が秒読み段階となるこの時期、第一航空艦隊司令長官には、海軍兵学校の37期生で南雲忠一大将の1期下の小沢治三郎中将が適任との見方も多かったが、ここは秩序と伝統で年功を重視した結果とも言われている。

当時の大日本帝国海軍内では水雷戦の第一人者との評価

南雲忠一大将は前述したような大日本帝国海軍内での対米強硬派という政治的な側面は置いておくとして、その時期の海軍士官としては水雷戦のエキスパートとの見方が多く、経歴もそれを裏付けるものだった。

南雲忠一大将は少佐であった次期には駆逐艦「樅」の艦長、第一水雷戦隊参謀を務め、中佐に昇進後は砲艦の「嵯峨」、「宇治」の艦長、大佐に承認後は巡洋艦「那珂」、「高雄」、戦艦「山城」の艦長を歴任した。
そして1935年10月には南雲忠一大将は第一水雷戦隊司令官となるも、以後2年後の1937年11月には海軍水雷学校の校長、1940年11月には海軍大学校長と現場指揮官ではなく、謂わば名誉職的な起用が目立った。

それでも日露戦争における日本海海戦でのロシアのバルチック艦隊に対する完全勝利は、大日本帝国海軍が次の仮想敵国をアメリカと定めた後も漸減邀撃作戦を指向させ、最終的に主力艦による艦隊決戦を行う戦術が想定されていた。
前述したように第一次世界大戦後の大日本帝国海軍は、ワシントン海軍軍縮条約、ロンドン海軍軍縮条約、第二次ロンドン海軍軍縮条約で米英に対し凡そ6割の戦力保有に留まり、漸減邀撃作戦はその数的不利を覆す戦術の座を占めた。

漸減邀撃作戦とは数に勝るアメリカ海軍に対し、潜水艦や航空機による攻撃を敢行、その後夜襲による水雷戦闘でその数を減らした後、見通しのきく日中に主力艦による砲撃戦で勝利を得ると言うのが基本線だった。
よって日露戦争以降の大日本帝国海軍において水雷戦は非常に重視された戦術であり、その意味では水雷戦の第一人者と評された当時の南雲忠一大将の存在は、決して傍流などでは無かったと考えられる。
南雲忠一大将自身も水雷戦は敵艦に肉薄して敢行する戦術であるが故に、非常に卓越した操艦技術を体得していたとされ、畑違いとは言えそうした指揮能力の高さは第一航空艦隊司令長官にも活かされると判断されたのだろう。

南雲忠一大将の太平洋戦争における戦歴

1941年4月に第一航空艦隊司令長官となった南雲忠一大将だが空母機動部隊の指揮は専門外と言う事もあり、草鹿龍之介参謀長が副官に据えられ、作戦の実施は源田実航空参謀が担い、1941年12月の真珠湾攻撃に挑んだ。
真珠湾攻撃は完全な奇襲と言う形で成功を収め、山本五十六大将を始めとする航空主兵論者達の思惑通りに、従来想定された主力艦による砲撃なしに大戦果を挙げたが、南雲忠一大将の評価も結果的には向上された形となった。

以後も南雲忠一大将指揮下の第一航空艦隊は、ジャワ島・ニューギニア島への南方作戦、インド洋への展開でも連合国相手に連戦連勝を続け、これは雷撃機や爆撃機の搭乗員の高い練度に支えられた驚異的な命中率によって実現された。
これは例えが適切か否か議論の余地はあろうかと思うが、謂わばプロ野球であれば熟練のベテラン選手達がベンチの采配など無くとも、個人の卓越した技量で勝利を重ねたようなものではないだろうか。

結果として南雲忠一大将は、真珠湾攻撃でアメリカ海軍の戦艦「アリゾナ」、「オクラホマ」、標的艦「ユタ」を撃沈、セイロン沖海戦ではイギリス海軍の航空母艦「ハ―ミーズ」を撃沈している。
逆に完敗を喫したあまりにも有名なミッドウェー海戦では、主力の航空母艦「赤城」、「加賀」、「蒼龍」、「飛竜」の4隻を一度に喪失し、この事実を以て南雲忠一大将を愚将・凡将と断ずる評価も後を絶たない。

但しこれは個人的にはあまりもミッドウェー海戦の敗北が劇的である為、後に様々な映像作品でその敗北の主要因が南雲忠一大将の判断の誤りにフォーカスされ過ぎた事が、その傾向に拍車をかけたようにも感じられる。

南雲忠一大将の最期サイパン島での自決

1942年6月にミッドウェー海戦で大敗北を喫した際、第一航空艦隊の大石保参謀は幹部全員が責任を示す意味で自決すべきと主張、南雲忠一大将もこれに同意したとされるが、草鹿龍之介参謀長が反対し遺留させたと言う。
南雲忠一大将はそれもあって生き延び、翌1942年7月には山本五十六大将・連合艦隊司令長官の意によって第三艦隊司令長官に就任、また草鹿龍之介参謀長も引き続き南雲忠一大将の副官として起用された。

第三艦隊司令長官となった南雲忠一大将は、1942年8月以降はガダルカナル島を巡るアメリカ軍等との第二次ソロモン海海戦、南太平洋海戦で指揮を執り、その後同年11月に佐世保鎮守府司令長官に転じた。
翌1943年6月、南雲忠一大将は呉鎮守府司令長官、同年10月には再び第一艦隊司令長官、翌1944年3月には中部太平洋方面艦隊司令長官と兼務で第十四航空艦隊司令長官の職を全うする。
しかしこの1944年には既に日本の劣勢は覆うべくもなく、中部太平洋方面艦隊司令長官と兼務で第十四航空艦隊司令長官として南雲忠一大将は最前線のサイパン島を死地と定めて赴いたと目される。

この中部太平洋方面艦隊司令長官と第十四航空艦隊司令長官とは、海軍組織でありながら既に艦艇も航空機も事実上は持たぬほぼ兵員のみの部隊であり、サイパン島の最期の守りを陸軍部隊と共に担った。

1944年6月に実際の海軍艦隊であった第一機動艦隊はマリアナ沖海戦でアメリカ海軍の前に壊滅、サイパン島には大挙してアメリカ軍が上陸、同年7月6日に南雲忠一大将は割腹して果てたと伝えられている。
ここまで本稿では南雲忠一大将と言う表記で統一して記述を行ったが、自決時までの海軍での階級は実際には中将であり、自決を以て大将への特進が行われたものである事を申し添えたい。

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