太平洋戦争において、補給が届かない中で戦うニューギニア戦線は日本では地獄と称されました。
一方で、このニューギニアの戦いはマッカーサーにとっては反撃の第一歩でした。
南西太平洋方面軍司令官マッカーサー
太平洋戦争のはじめで日本軍はアメリカ領のフィリピンに進撃
このフィリピンを守っていたのはフィリピン軍元帥でもあるダグラス・マッカーサー米陸軍大将です。
マッカーサーは日本軍に押されフィリピンから脱出し、「私はまた帰って来る」と誓います。
そんなマッカーサーは南西太平洋方面軍司令官として南太平洋の戦線を指揮します。
ところが、共に戦うオーストラリアは日本軍の快進撃ぶりからオーストラリアの防衛線をオーストラリア南西部にまで下げて持久戦をする方針にしていました。
マッカーサーはオーストラリアの国土の大半を捨てての防衛方針から、ニューギニアのオーエンスタンレー山脈まで防衛線を前へ押し出しました。
反撃開始
1942年(昭和17年)7月から日本軍は東部ニューギニアに上陸し、ポートモレスビー攻略作戦を開始
マッカーサーはアメリカ軍とオーストラリア軍で日本軍の進撃を止め、逆に東部ニューギニアを南から北へ進撃する反撃を始めます。
同じ頃にガダルカナル島で米海兵隊が上陸し、米軍を中心とした連合国軍は日本軍に反撃する時期に入っていました。
とはいえ日本軍の抵抗は激しく1942年の年内では東部ニューギニアを制圧はできませんでした。
マッカーサーの立てた戦略は日本軍の拠点であるラバウルを無力化し、ニューギニアを制圧する事です。その先に、マッカーサーはフィリピン奪還を考えていました。
一方で日本軍は3個師団を中心とした安達二十三中将が指揮する第十八軍をニューギニアに送り込み、戦力を強化します。
東部ニューギニアの突破とカエル飛び戦法
1943年になると、東部ニューギニアの制空権と周辺海域の制海権を握る連合国軍の優位が戦局に影響を与えます。
制空権を持つ事で地上の日本軍の行動の制限をさせ、制海権は各地に上陸して複数から日本軍の拠点を攻撃できました。
この戦い方で連合国軍は東部ニューギニアの日本軍を撃破する。
1943年の秋になると、第十八軍は東部ニューギニアの要所であるラエからの撤退を決定して北へ退きます。
この年の12月にはラバウルのあるニューブリテン島の西部へ上陸作戦を開始、ニューギニアとニューブリテン島を挟むダンピール海峡は連合国軍の支配する海域となりました。
1944年からはニューギニア北部が主戦場となり、マッカーサーは日本軍の手薄な地域への上陸作戦を多用して限られた戦力で日本軍を追い込みます。
これはカエル飛び戦法またはスキップ戦略と呼ばれます。
マッカーサーは限られた戦力でこの戦い方を採用した一方で、フィリピンへ急ぐ為の方法でもありました。
featured image:Post-Work: User:W.wolny, Public domain, via Wikimedia Commons
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