火災は人類が「火」という道具を得た時から付き合ってきた災いの1つだろう。
歴史上、私達は数多の火災を見聞きし経験しており、人の生命に害をなす恐ろしい災いだと認識しているはずである。
それと共に現代に生きる私達は防火技術の進歩を用い、細心の注意を払えば火災は回避できる災いであることも知っている。
しかし、一度火の恐ろしさを軽んじ、注意を払わなくなった時、火は人間に牙をむく。
昭和に起きた大火災の1つ、ホテルニュージャパン火災。
この火災も火と人間の命を軽視した1人の人間の利益第1主義をきっかけに起きてしまった悲惨な人災である。
未明の第1報
1982年(昭和57年)2月8日未明の3:39、タクシー運転手から東京消防庁に一報が入る。
「建物が燃えている」。
場所は東京地下鉄(現・東京メトロ)赤坂見附駅そばの永田町。付近には国会議事堂や首相官邸が立ち並ぶ日本の政治の中心地だ。現場に急行した消防隊員達はその有様を見て息を飲む。
そこにあったのは炎を立ち昇らせ、一帯を熱で包みながら夜闇を煌々と照らす巨大ホテルだった。
隊員らがホテルの火の元と見られる上階に目を向けると黒っぽいなにかが落ちてくる。
皆、息をのんだ。次に出た「やめろ」という叫びがそのなにかに届くことはなかった。
空中に躍り出たのは、炎と煙と熱に耐えられずに建物の窓から炙り出された人間だったのだ。
消防隊員たちの悪夢が幕を上げた瞬間だ。
救助活動
現場に到着した消防隊員らはすぐに救助活動を開始する。
しかし激しい煙と炎、そして本来救助活動の手助けをするはずの従業員たちが消防隊員の行く手を阻むこととなった。
ホテル突入時の違和感
火の手を上げている建物は「ホテルニュージャパン」という多機能型高級ホテルだった。
いち早く現場に到着していた麹町消防署永田町出張所の特別救助隊(人命救助任務に特化した部隊、通称レスキュー隊)の隊長はすぐにホテル内部が恐ろしい事態になっていることを予感した。
隊長はエリア内の消防設備点検で数カ月前にこのホテルを訪れており、その際に館内防火管理体制を改善するよう指導を行っていたのだ。
もしも指導を受け入れずにあの時の防火体制のままだったら・・・。
嫌な予感を感じつつホテル内に入った特別救助隊は、まず非常階段の位置を確認するため警備室へと向かう。
辿り着いた警備室で守衛に火の元とみられる9階に行く道を教えるよう頼むと信じられない返答を受ける。
「社長に確認してから」。
自分の会社のホテルが燃え、内部には数多の宿泊客が取り残され、助けを待っている。
その最中になにを確認することがあるというのか。
「そんな余裕はない!」。
隊長は激しい剣幕で断じると守衛を非常階段へと案内させた。
地獄に苦しむ人々
教えられた非常階段はすでに煙が充満していた。
なんとか9階に到着するも、ドアは熱で膨張してしまい開けることができない状態になっていた。
そこで特別救助隊は最上階10階の上にあたる屋上に向かう。
3:49、屋上に到着した特別救助隊は9階、10階の窓から助けを求める宿泊客を発見した。
煙のせいで涙と鼻水が止まらなくなった者やすぐそばまで炎と熱が迫ってきている者。皆、半ばパニック状態となっている。
特別救助隊は次々に逃げ遅れた宿泊客をロープで引き上げ救出していく。
その最中、救助された宿泊客が部屋に取り残され倒れている人がいると言い始めた。
取り残された宿泊客
隊員はすぐに酸素ボンベを背負い、客が取り残されているらしい部屋へと向かう。
その部屋はまだ燃えてはいなかったものの、すぐ隣室まで火の手は迫っており一刻の猶予も許されない状況だ。
屋上に残った隊員たちが固唾をのんで吉報を待っていたその時、けたたましいベルの音が聞こえる。
救助に向かった隊員のボンベの酸素残量が切れた合図だった。
すぐさま隊員の命綱を引き上げたものの、要救助者引き上げの準備が間に合わず、救助には至らなかった。
隊員らは何とか助け出したいと声を挙げたが、部屋はすでに炎に囲まれていた。
消防隊を襲うフラッシュオーバー
部下からの要救助者発見の報告を受け、隊長は自らが救助に向かう決心をする。それは彼が現場に向かうにあたって1つの懸念を抱いたからだ。
隊長は取り残された宿泊客の残る部屋へと再突入し、取り残された男性宿泊客を発見。
逸る気持ちを抑えながら宿泊客引き上げのための準備を始めた。
その時、突如部屋にいた2人に炎と高熱が襲い掛かる。隊長が恐れていたフラッシュオーバーが起こってしまったのだ。
フラッシュオーバーとは、火災により室内の可燃物が熱分解され引火性ガスが発生し室内に充満した際に、炎が短時間で爆発的に室内全体に広がる現象のことだ。
室内は一瞬で1000℃を超える熱波に包まれ、あっという間に延焼することもあり、正確に発生を予見することも難しい。
時には要救助者や消防隊員の命を脅かし、退路を炎と煙で塞ぐこともあるため、火災現場で恐れられる現象の1つにもなっている。屋上からフラッシュオーバー発生を確認した隊員たちはすぐに隊長の命綱を引き上げた。
炎の中から現れたのは命綱をつけた隊長。そして彼の腕の中にしっかりと抱きかかえられた男性宿泊客の姿だった。
消防隊員が1階で見たものとは
ホテルニュージャパン火災の際には人員、消火関係車両など最大の出動規模になる火災第4出場が発令され、多くの消防隊員が現場で活動していた。その現場で消防隊員らの目に驚くべき光景が飛び込んでくる。
1階ロビーから高価な絵画や調度品を運び出す従業員たちの姿だった。何をしているのかと問えば「社長の指示」で「避難」させているのだという。
自分たちのホテルで助けを待つ者たちの救助に協力するでもなく、消火活動の邪魔としか言えない行動をとるホテルの者たち。その様子に消防隊員達は呆れ果てるしかなかった。
自力での避難を余儀なくされた宿泊客たち
平穏な夜のホテルは突如として灼熱の地獄と化した。
従業員による避難誘導もない中、宿泊客の一部はわけもわからず自力での避難を強いられることになった。
幸せの絶頂から絶望の淵へ
その時、ある宿泊客は異臭を嗅ぎつけ目を覚ました。前日にホテルニュージャパンで結婚式をあげ、新妻と共にそのままホテルに宿泊していた男性Aだった。
まだ夜明け前で薄暗い部屋の中、何事かと部屋を見回すと天井の方に煙が立ち込めていた。
Aは慌てて眠っていた妻を起こし、避難しようと部屋のドアを開けたもののすでに廊下は黒煙に包まれていた。
従業員による避難誘導もなく、この危機的状況を知らせる館内放送も聞こえない。ホテルの内部から自力で避難路を探り出し、下の階に逃げるのは不可能な状況だった。
泣く泣く部屋へと引き返し、なんとか排煙のために窓を開ける。廊下からの避難ができないとなると残された退路はこの窓から外に出る他ない。しかし新婚夫婦が滞在していた部屋は9階だった。
火の手から逃げるためには窓から飛び降りるしかない。
しかし9階の高さから飛び降りれば命はない。
眠りにつく瞬間までは幸せの絶頂にいたはずの2人は、突如として絶望の淵に立たされることになった。
シーツでできた蜘蛛の糸
このまま焼け死ぬか、一か八か飛び降りて死ぬのか。そんな究極の選択を迫られていたAの耳に誰かの声が飛び込んできた。
自分たちのいる9階の上、10階で別の男性宿泊客が何かを叫んでいたのだ。
外国人なのか言葉はうまく通じないが身振り手振りと必死の雰囲気でこちらになにかを伝えようとしている。
彼の手にはホテル備え付けのシーツを結んで作られたロープが握られていた。この外国人宿泊客は夫婦の部屋のシーツを寄こせと言っていたのだ。Aは急いで自分たちが滞在していた部屋のベッドのシーツを剥ぎ取り彼の元に投げる。
すると外国人宿泊客はそのシーツを自分の持っていたシーツに結びつけ、そのお手製ロープを伝いながら慎重に外壁を降りて行った。彼は無事にまだ火の手の迫っていない7階に着地。
急いで降りてこいと夫婦を呼び寄せた。
地獄からの脱出
しかし、シーツのロープは夫婦のいる客室から手伸ばしても届かない場所で垂れ下がっている。ロープを手繰り寄せるためには1度外に出て、幅20㎝もない外壁の縁を伝って行かなければならない。もしも足を滑らせてしまえば遥か下の地面まで真っ逆さまだ。
だが、運良く辿り着けたとしても、人間2人を支える強度がこのお手製ロープにあるのか。もしも避難の途中で壁を伝って火が燃え広がり、シーツに燃え移ったりしたら終わりではないか。悪い想像はいくらでもできたが、Aはついに覚悟を決めた。
妻と共に窓から外に出て、できる限り壁にぴたりと身を沿わすと細い足場を慎重に歩いていく。
一瞬が永遠にも感じられるような時間をなんとか歩き切り、Aはシーツのロープに手を伸ばし、飛びついた。
その後妻の手を取り、軋むシーツの強度と強くなる火の手に恐々としながら、なんとかロープの終着点である7階の部屋に辿り着いた。
地獄から安全な場所へ、なんとか逃げ出すことに成功したのだ。
火災の顛末
3:39の通報直後から必死の消火活動、救助活動が行われていたものの、荒れ狂う炎との戦いは混迷を極めた。特に火元の部屋があった9階、その上階の10階は火の手が激しく、7・8階や建物の屋上部分にまで燃え広がった。
ようやく鎮火が確認されたのは2月8日の12:36、火災発生から約9時間が経過してからのことだった。
火災発生当時、ホテルニュージャパンには宿泊客442人が滞在していたという。
そのうち、この火災による死者は33人にものぼった。死者のほとんどは9階と10階の宿泊者で多くは台湾や韓国からの観光客だった。彼らはさっぽろ雪まつりのツアー参加者であったという。
アジア最大の雪と氷の祭典を楽しもうとやって来たはずなのに、異国の地でこのような事態に巻き込まれるなど、当人達もご遺族も想像していなかっただろう。先の救出劇の中で特別救助隊の隊長に助け出された10階の宿泊客も全身におおやけどを負い、救助の甲斐なく亡くなった。
また、救出した隊長自身も頭部と喉にやけどを負い、すぐに病院に運ばれている。
こうして消火・救助活動中にケガを負った消防隊員を含め負傷者は34人となった。死者の大半は火災による焼死や一酸化炭素中毒による窒息死と見られ、部屋やホテルの廊下で発見されている。しかし、13人の犠牲者は部屋の窓から飛び降りて亡くなった方々だった。
炎の海の中で廊下を這って進んだ人、一縷の望みにかけて窓から飛び降りた人、退路を断たれ、ただひたすらに部屋で救助を待っていた人。避難の誘導も状況を報せる館内放送もない中で、迫りくる炎と煙の恐怖に怯えながら皆必死に生き残る道を探した結果なのだろう。
炎と煙に飲み込まれた犠牲者、地面にたたきつけられた犠牲者の恐怖や悔恨、痛み、無念さを思うと同情の念を禁じ得ない。
火災の原因
多数の死者・負傷者を出したホテルニュージャパン火災、出火の原因とはなんだったのか。
後の調査により、9階に滞在していた酔っぱらったイギリス人宿泊客の寝タバコの不始末が原因と判明している。
どうやらこの宿泊客は一度目が覚めた時点でボヤを起こしたことに気が付き、火元を毛布で叩いて覆い自ら消火していたらしい。しかし、実際には火は完全には消えておらず、消火に使った毛布に引火。
やがて寝入った宿泊客を尻目に部屋中に燃え広がり、果てはホテルを燃やす炎に至ったのだ。
大火災に発展した3つの理由
元々の火災原因は寝タバコの不始末だったが、果たしてそれだけの原因でここまでの大火災になり得たのだろうか。
そこには建物の構造や防災設備の不備、従業員の教育不足といった大火災に発展することが宿命だったとでもいうべき理由があった。
火災に弱い建物のつくり
そもそもホテルニュージャパンとはどういったホテルだったのか。このホテルは当初、戦後の好景気を背景に富裕層向けの高級レジデンス、つまり住居として着工した建物だった。しかし、1964年の東京オリンピックや高度経済成長期の観光・宴会需要の増加を見込んで計画を急遽変更。
建物の2/3ほどの部分をホテルに転用し1960年に開業した。
ホテル内には大小様々な規模の宴会場や広間、多彩なレストラン、ショッピング施設にナイトクラブまで兼ね備えられており、内装や調度品も豪華絢爛。まさに高級ホテルといった風情だ。
永田町という立地も相まって政財界御用達、海外からの観光客も多く滞在するホテルとなっていた。
そんなホテルだったが、そもそもの建築計画と仕様の変更と多機能化は建物構造の複雑化を生み出した。
ホテルニュージャパンは上から見ると中央から三方向に廊下と客室棟が伸び、その先端がさらに二手に分かれ、Y字のような形になっている。
内部から見ると通路が迷路のように複雑なつくりとなっていた。
もしも火災で煙が充満し視界不良となれば、建物の構造上、方向感覚を失いやすく非常口の場所や避難路を自力で探り当てるのは難しかっただろう。また、横から見るとホテルの正面、低層階の一部が張り出したような恰好になっており、この構造が地上からのはしご車での救助の妨げとなってしまった。
設備の不備
ホテルニュージャパンの防火設備も多くの問題を抱えていた。
今日では当たり前に設置されているスプリンクラーは配管に繋がっておらず、防火扉は床に敷かれた絨毯が厚すぎて閉まらないという状態のまま、ホテルは営業していたのだ。
そもそもホテルニュージャパンが開業した1960年当時の時点では防災設備が不十分な状態でも営業に問題はなかった。
だが1972年(昭和47年)に発生した千日デパート火災(失火と防火管理の脆弱さから死者118人を出した戦後最悪のビル火災)をきっかけに改正消防法が施行され、既存の建物であっても対象となった建造物はスプリンクラーや防火扉などの設置や内装を不燃材に変更することが義務付けられた。
当然ホテルニュージャパンにもこれらの措置は義務付けられることとなったが、スプリンクラーなどの設置や内装工事に手が付けられることはなかった。
もちろん消防当局だってそのようなことを黙って見過ごすはずもない。
ホテル側に対し再三の是正勧告を命じ、「改善しない場合、消防法に基づく営業停止処分を科す」という最後通牒を突きつけたのだ。
ようやく防火設備拡充に乗り出したが、実際にはスプリンクラーのヘッド部分のみを天井に取り付けて、あたかもスプリンクラーが設置されているように見せかけるという杜撰な対応しか行わなかった。現代のスプリンクラーの初期消火率は約96%とも言われている。
ホテルニュージャパン火災発生当時の性能であっても、スプリンクラーが問題なく作動していれば、イギリス人宿泊客が滞在した部屋のみで初期消火が完了していた可能性は高いと考えられる。万が一初期消火に失敗したとしても、防火扉が機能していれば延焼を食い止め、より多くの宿泊客が避難する時間を稼ぐことができただろう。
また、本来であれば火の手、煙があがった段階で火災報知器や煙感知器が作動していてもおかしくない気がするのだが、この2つの装置は故障したまま放置されていたため、機能することはなかった。
加えて避難誘導に必要な館内放送設備も同様に故障しており、火災時に役に立たなかった。
早くに火災に気が付き、消火または延焼を食い止め、客を安全な場所へ避難させる。
これら3つの行程に必要な機材どれ1つが欠けても甚大な被害を食い止めることは難しくなってくるが、ホテルニュージャパンには1つとして備わっていなかったのだ。
火災発生時のホテル従業員の行動とは
建物の構造、そして備え付けられた設備どれをとっても不十分だったホテルニュージャパン。では、火災が発生した時、ホテル従業員たちはなにをしていたのだろうか。
火災の第一発見者はホテル従業員Bだった。
この日、4人の当直番の1人だったBは仮眠をとるため9階の空いていた客室に向かっていた。ホテルニュージャパンには従業員の仮眠室がなく、客の入らなかった部屋を適宜仮眠用に使っていたそうだ。
その際にBは偶然にも9階の一室から煙が噴き出しているのを発見した。この時点で火事が起きていることは十中八九、明白である。
しかしBは火元の部屋の戸を叩き確認するでも、消火器を使って初期消火を行うでも、内戦電話で火災発生の連絡や応援を頼むでも、消防に通報をするでも、フロアの宿泊客を避難させるでもなく、1階のフロントへと向かった。
煙を吐き出す部屋の内部を確認するためマスターキーを取りに行った。
Bは火災が発生した時の初期対応を全く知らなかったのだ。Bの一報を聞きつけ、応援に駆け付けた別の従業員がようやく火元の部屋のドアを開けたときには部屋は火の海と化していた。
従業員達は消火器で初期消火を行ったが歯が立たない。
9階に設置されていた消火器を使い切ったため別の消火器を探しに別のフロアに行ったり、消火栓を使おうと試みたものの使い方がわからず右往左往しているうちに炎は素人には手が負えないレベルまで延焼を始めてしまった。
本来であれば、初期消火に失敗した時点で急いで宿泊客の避難誘導を行わなければならないはずである。しかし、なんと彼らは宿泊客の安全を確保する主だった行動をとるでもなく、その場にいた従業員全員で9階を離れて1階のフロントへと戻っていったのだ。しかもあろうことか火元の部屋のドアを開けっ放しにしたまま。
時待たずしてこの部屋のドアから炎が噴き出したため、廊下を通じて煙と炎が瞬く間に各部屋へと流れこんでいくこととなってしまった。こうして従業員の重なる悪手によってホテルニュージャパンは炎に包まれ、多くの宿泊客が避難路を見失い炎と煙に捲かれることとなったのだ。
大火災の元凶、横井社長という人物
なぜ会社は再三にわたる当局の防災設備不備に対する是正勧告を無視し、頑なに設置を拒絶したのか。
なぜ従業員たちは火災が起きた際の対応をわかっておらず、宿泊客を守れなかったのか。
そこには横暴で利益第一主義の社長の存在があった。
設備不備と従業員の対応が未熟なワケ
1979年、ホテルニュージャパンに新しい社長が就任する。
社長の名前は横井英樹。
ホテルニュージャパンは好立地、豪華な内装を背景に高級多機能ホテル謳っていたものの、実は経営難で倒産の危機に陥っていた。そこで経営を託されたのが実業家として名を馳せていた横井である。
ホテルニュージャパンを買収したことで、オーナー兼社長として経営の実権を握った横井社長だったが、彼にホテル経営の実績は全くなかった。
そんな中で横井社長がとった経営手腕は宿泊客獲得のための積極投資と徹底した経費節減である。
社長就任後、ホテルニュージャパンのロビーなどの人の目につく共用スペースの内装は華やかな見た目に改装されていった。
来訪した宿泊客の目を喜ばせリピーターを増やし、ホテルロビーという誰でも入れる場所を豪華に飾り立てることによって「憧れの高級ホテル」という印象を持たせることで新規顧客獲得を目指したのだろう。
一方で経費節減のため、客に見えない部分についてはコストカットを徹底した。宿泊客を増やすために直接関係にない防災設備の設置に金をかけることは断じて認めない。
消防当局からの是正勧告を突きつけられても最後まで工事を渋った挙句、配管が繋がらない張りぼてのスプリンクラーを設置したりして、なんとか当局の目を欺き安上がりに済ませようと必死だった。
また、こういった宿泊客の安全を無視し違法ともとれる経営に反対する社長の意に沿わない従業員を次々に解雇。新たな従業員を雇い入れることもなかったため、残った従業員1人1人の仕事量はどんどん増えていった。
こなす仕事が増えても給料はあがらず、それどころか支払い遅延や未払いまで起こる始末であったという。
こうして従業員たちの士気は下がり、多忙の中で安全教育などに割かれる時間もなくなっていった。
ホテルニュージャパン火災が甚大な被害を生み出す大火災となったのには、横井社長の人命に対する意識の希薄さとどこまでも利益を追求しようとする拝金主義という元凶があったのだ。
横井社長という男
横井社長とはどういった人物だったのだろうか。彼は貧しい農家の家庭の次男として生まれた。
父親は粗野で酒乱、しょっちゅう家族に暴力を振るって子どもを学校にもろくに通わせないような人物だった。
横井社長が家庭に恵まれていたとは言い難いだろう。だが、父親の態度にも屈せず横井少年は意地でも学校に通い、成績もよかったそうだ。また、家計を支えるため身を粉にして働く母の姿を見て、勉学に励む一方で自身も働いて母親を助ける孝行な一面もあったようだ。
成長し上京した横井社長は第二次世界大戦下、繊維関係の軍需品製造で大当たりする。戦後は繊維業界の衰退をいち早く察知し、戦時下に得た資金を元に不動産業界に進出しこれもまた大当たり。経営の才覚を存分に発揮した。
着実に財を築いた一方で、財界人からは「学のない戦争成金」として不評だったようだ。
「財界人として認められたい」。
横井社長は大いなる野望を抱くと共に、その野望は暴走し始める。
その後、彼は老舗百貨店・白木屋をはじめ多くの会社の買収に噛んでいく。手荒い手法も相まって「乗っ取り屋」として名を馳せるようになっていった。その過程で手中に収めたのがホテルニュージャパンだった。
火災時、救助・消火活動が続く中、本来であれば従業員に率先して宿泊客避難などの対応をとらせるべきところ、横井社長は従業員らにロビーに飾られた豪華な調度品を安全な所に運び出すよう指示。
実際に従業員もその指示通りに行動していたというのだから、従業員がどれほど横井社長を恐れていたのかがわかる。
また火災鎮火後、横井社長は愛用の蝶ネクタイを着用し拡声器を持ってホテル前に現れ「火事は火元の部屋の宿泊客の失火が原因だ」、「9・10階のみで火災を止められたのは不幸中の幸い」などと声高に叫ぶ様子が報道され、その姿に非難が殺到した。
やがて防火設備不備などの違法運営が発覚し業務上過失致死傷罪で横井社長は禁錮3年の実刑判決を受けることとなった。
稀代の乗っ取り屋の凋落である。
もしも横井社長が野望達成のために邁進しているその時でも、子ども時代に忙しく働く母を気遣ったような、他者に対する配慮の心を失っていなければこの大惨事は少しは違った様相だったのかもしれない。
ホテルニュージャパンのその後
火災後、ホテルニュージャパンのホテル部門は廃業。
永田町という一等地ながら、惨劇の現場となった土地を求める投資家がいるはずもなく、廃墟のまま1996年まで放置されることとなった。
その後、時を経ての再開発の過程で土地と建物を外資系生命保険会社が買収。
現在では「プルデンシャルタワー」という新たな建物に生まれ変わり、かつて大火災が起きた風情など感じさせずにその土地に鎮座している。
最後に
過剰な利益第一主義によって引き起こされたともいえるホテルニュージャパン火災。
33人ものと犠牲者を出すと共に、高級ホテルが炎に包まれ窓から宿泊客らが飛び降りる姿は報道を通じて日本中に衝撃を与えた。
この火災を教訓に日本中のホテルが防火防災対策に励んでいるはずだが、少しの気の緩み、見落としで火災はいくらでも起こり得ることを忘れていはいけない。
火種はいくらでも私達の身近に燻っているのだ。
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