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「キャプテン、止めてください!!」日本航空350便逆噴射墜落事故

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現代を生きる私達にとって飛行機は移動手段としてなくてはならいものだろう・・・巨大な乗り物が空を飛び、乗客は束の間の空の旅を味わうことができるのだ。
しかし忘れてはいけない、私達は飛行中、上空10,000mに無防備な状態でいること。
そしてその身の安全は、操縦桿を握るパイロットにすべてが委ねられていることを。

目次

海上に叩きつけられた飛行機・・・事故の概要

1982年2月9日午前8:44、乗客乗員174名を乗せた福岡発羽田行きの日本航空機350便が着陸寸前、羽田空港沖に墜落した。
飛行機は大破し、胴体部分が機首に乗り上げるような状態となり、前方部に搭乗していた乗客乗員は多くが海に投げ出された。
機体からは多くの人々が救助されたものの、乗客24人が死亡、重傷95人(乗組員8人、乗客87人)、軽傷54名(乗客54人)という大事故だった。

事故当日は天候もよく、また、海外で飛行機墜落事故が多発していたこともあり、事故原因として機体のトラブルを疑われていたものの、後の調査でとんでもないことが判明する。
350便は羽田空港に着陸する直前、機長が通常の手順と異なる操作をしたため逆噴射が作動、機体が急降下していたのだ。

異常事態に副操縦士が慌てて立て直しを図ったものの、着陸直前で飛行高度が低かったことも災いし、機体は本来の体勢に戻ることなく、機首から墜落、海に叩きつけられた。
つまり、機体の整備不良や欠陥などではなく、機長自らが飛行機を墜落させたのだ。

機長は生き残ったものの逮捕。
しかし、機長は精神鑑定の結果、不起訴処分になった。
機長は事故の6年も前から精神疾患を患っており、事故機乗務当時、精神分裂症(現・統合失調症、以後旧呼称使用)の状態だったのだ。

以下、航空事故調査委員会(現・運輸安全委員会、以後事故調査委員会と記載)のまとめた航空事故調査報告書を紐解きながら、事故の詳細を見ていきたい。

墜落したのはこちらだったかもしれない・・・事故前日搭乗JAL377便

JAL350便墜落の予兆は、事故発生の前日から見え隠れしていた。
事故発生日の前日、2月8日、350便に搭乗していた機長、副操縦士、航空機関士はJAL377便(東京20:00発―福岡21:40着)(以下、377便)に搭乗している。

377便出発前の操縦室内で行われたブリーフィング(航空業界用語、乗務前後の乗務員によるミーティングのこと。天候や飛行ルート、高度などの確認、その日のフライトの流れや方針、注意点などを共有する)中、機長は吐き気を感じ、気分が悪くなる。そのため、ブリーフィングは簡素化され終了。
これについては副操縦士も航空機関士も特に問題だとは思わなかったようだ。

377便は機長の操縦により定刻通り滑走を開始する。
滑走路手前まで地上滑走し、待機。
20:11頃、管制塔から「滑走路に進入し待機せよ」の指示で滑走を再開した。

しかし、機長は管制塔からの指示が「待機」、つまり離陸許可が下りていないにも関わらず、「管制許可はきているね」といいながら、離陸に向けての操作を開始。
副操縦士と航空機関士は慌ててこの操作を中止させた。

その後、管制許可を得て20:13離陸。
離陸自体に問題はなかったものの、20:18頃、旋回後の377便のバンク角(機体の左右軸と地面との間に生じた角度をバンク、水平面に対する角度をバンク角という)が最大70度前後に達する。
バンク角70度というと、飛行機は水平面に対しほぼ垂直、つまり翼がほぼ真下に来てしまい、機内は90度近く傾いてしまったことになる。

記録によると、377便は15秒間に高度6,800フィートから6,000フィートまで急速に降下。バンク角の異常に気が付いた副操縦士が機長に確認を取る間もなく、自己判断で修正操作を実施。
10秒程で元の高度、6,800フィートまで再上昇、機体を安定させたことで、ようやく377便は通常の状態に戻った。
この25秒ほどの間に機内にいた人間にかかったGは2.1Gであったことが、飛行記録装置に記録されていた。

この一連の操縦により、機内はかなりの衝撃と揺れに見舞われ、クレームも相次いだそうだ。
飛行を安定させた後、副操縦士が「キャプテン、大丈夫ですか?」と尋ねると、機長は「大丈夫です」と答えたという。

その後の飛行には特段の異常はなく、21:58、377便は定刻よりやや遅れて福岡空港に着陸。
乗客を降ろし、乗員達も降機する際、副操縦士は機長から「お見事」と言われたという。
自らが操縦していたにしては、なんともおかしな言葉だ。

350便墜落を受けての聞き取りに対し、機長は377便飛行中、ブリーフィング時に感じた吐き気は感じなかったものの、「何となくぼーっとしていた」と述べたという。

もしかたら、機長は自分ではなく、まるで副操縦士が377便を操縦していたような気になっていたのかもしれない。
だとすれば、機長は事故前日、377便フライトの段階で精神になんらかの変調をきたしていたことになる。

  • 管制官の離陸許可が出ていないにも関わず、滑走路上での離陸準備
  • 上空でのバンク角異常と急降下

もしもこの2つの行為に対し、副操縦士や航空機関士が対応できなければ、大事故に繋がっていた可能性が高い。
この377便こそが、墜落した350便の運命を辿っていてもおかしくなったのだ。

「キャプテン、止めてください!!」副操縦士の叫びが響くボイスレコーダー

2月9日、6:05頃、前日370便に乗務した副操縦士、航空機関士と福岡から乗務の客室乗務員5人と共に、機長はホテルを出発。
空港内でのブリーフィング後、全員徒歩で駐機されていた350便へと向かう途中、そして機内での離陸直前のブリーフィング中にも、機長は再び前日同様の吐き気を感じ、この直前ブリーフィングを簡素化。
しかし、これを不審に思う乗務員はいなかった。

こうして350便は7:34、定刻よりやや遅れ、乗組員8人、乗客166人、合計174人を乗せ福岡空港を離陸する。
この時、自分達がまさか海の上に墜落するなど誰も考えていなかったであろう。

ここからはボイスレコーダーの記録と運航記録の抜粋を元に経緯を見ていく。

  • 7:51
    350便は巡航高度29,000フィート(約8,800m)に達して巡航に移行。
    順調な飛行が続く。
  • 8:19
    管制より350便着陸準備のために「16,000フィート(約4,900m)までの降下」を指示。
    機長は指示通り降下を開始する。
  • 8:29
    350便から管制に高度16,000フィート以下の高度を要請、指示を受け高度3,000フィート(約900m)に降下開始。
  • 8:35
    管制から350便に滑走路33Rへ着陸許可。
  • 8:37
    350便はフラップ(飛行機の主翼後縁にある高揚力装置)を下げ、着陸準備開始。
  • 8:39
    着陸装置が下され、滑走路への着陸進入継続の管制指示。
  • 8:42
    350便、計器指示に異常がないことを確認。
    管制の着陸許可を受け、副操縦士が応答。
    確認のため副操縦士が機長に管制許可を伝えると「はい」と返事があった。
  • 8:43:25
    滑走路への進入手順に従い、副操縦士が「ファイブ・ハンドレッド」(高度500フィートの意味、約150m)をコールアウト、機長からの反応はない。
    副操縦士には機長がパワー・コントロールに専念しているように見えたため、規定に基づく確認はなかったものの、了承の意を示しただろうと判断。
  • 8:43:50
    高度300フィート(約90m)通過。
    副操縦士が着陸可否決定高度への接近に注意喚起するため、「アプローチング・ミニマム」をコールアウト。
    機長からは手順通り「チェック」(確認したの意味)の応答があった。
  • 8:43:59
    航空機関士が「ツー・ハンドレッド」(高度200フィートの意味、約60m)をコールアウト。
    副操縦士はそれに対し「ミニマム」(着陸の可否を決める高度に近づいているの意味)をコールアウト。
    規定によれば、機長はここで着陸を意味する「ランディング」または着陸を取り止め、再度上昇する「ゴー・アラウンド」のいずれかをコールアウトし、着陸について最終決定を下さなければならなかった。
    しかし、機長の応答は小さく沈んだような声で「チェック」と辛うじて聞き取れるものだった。
  • 8:44:01
    機長は自動操縦を解除し、手動操縦に切り替え操縦輪を前方に押し込み、全エンジンのパワー・レバーをフォワードアイドルにまで引き戻した。
  • 8:44:02
    エンジンの出力が低下していることに気が付いた航空機関士は「ウィ・ア・ロー」または「パワー・ロー」と叫ぶ。
    ほぼ同時に機長は第2・第3エンジンのリバース・レバーをアイドル位置まで引いた。
    この行為により、機首が下がってしまったことに気が付いた副操縦士が反射的に操縦輪を引き起こそうとしたものの、重くて動かない。
    見ると機長が両手を突っ張って操縦輪を押し込んでいたのだ。
    350便は通常では考えられないほど機首が下がってしまった、搭乗者達は体が前のめりになり、前方浮くように感じたという。
  • 8:44:03
    副操縦士が操縦輪を引き起こしたことで、下がっていた機首の角度が浅くなる。
  • 8:44:04
    機長が第2・第3エンジンのリバース・レバーをアイドル位置まで引いた事により、逆噴射(急ブレーキがかかったような状態)がききはじめる。
    コクピットには警告音が鳴り響く。
  • 8:44:05
    副操縦士は依然として操縦輪を引き起こそうとしてたが、全く動かない。
    機長を見るといまだに両手をつっぱり操縦輪を押し込んでいた。
    「キャプテン、やめてください!」コクピット内に副操縦士の叫びが響き渡った。
  • 8:44:07
    350便は着陸予定滑走路33R進入端から510m手前の第14番進入灯西側海面に機体の前足から突っ込んだ。
    右主翼により進入灯を破壊、エンジンなどを脱落させながら約150m進行した後、第18番進入灯を倒して停止。
    350便の機体は胴体部分が前方出入口付近で2つに破断、分離し前部胴体に後部胴体が乗り上げる格好で海上に投げ出されたのだ。

航空機関士が異変に気づいてからわずか5秒の間の出来事だった。
事故直後、副操縦士は機長に「キャプテン、何てことをしてくれたんですか!」と怒鳴り、詰め寄った。
しかし、機長本人は自分が何をしでかしたのか飲み込めておらず、ボーッとしている。
ようやく自分が海上にいることを認識すると今度は泣き出してしまうという始末であった。

決死の救助活動

この墜落によって相当数の乗客が海に投げ出された。
シートベルトをつけたまま、座席ごと海に放り出された者もいた。
事故当時の水温は5~11℃、この水温の中での予想生存時間は1~3時間程、早ければ30分程で死亡する者もいる低水温だ。
機内に取り残された乗客も座席や荷物に体を挟まれ脱出できなくなったり、衝撃で意識を失う者が多数出ている状態だった。

事故の4分後には、羽田空港の管制塔から消防に通報。東京消防庁の救助隊は事故の28分後には現場に到着している。
この事故の前日2月8日には死者33人を出したホテルニュージャパン火災が起きていた。
通報当時は多くの隊員が今だ火災の事後処理対応中であるという厳しい状況下での出動であった。
羽田沖という場所柄、多くの漁船、小型の釣り船も事故を目撃。
中には危険を顧みず救助に加わった船もあり、そうした一般の救助に助けられた人も大勢いたという。

また、ほぼ全員がケガを負ったにも関わらず、動ける乗客達は最低限の使命を果たさんとする重傷を負った副操縦士や客室乗務員達に協力し、救助活動や重症者の介助にあたったという。
(なお、航空機関士は事故により意識不明となっており、事故の40分後に救助された。)
なお、これだけの大事故にも関わらず、乗客がパニックを起こさなかった理由として、以下の点が考えられる。

  • 墜落時、干潮間際で水位が低かった点、機体が浅瀬に乗り上げた点
  • 後部の機内の損傷が比較的小さく、機体内、外部が明るかった点
  • 陸地が近いことが目視ですぐにわかった点
  • 最終的に火の手があがらなかった点
  • 早朝便であったため、乗客の年齢層のほとんどが働き盛りの世代で、乳幼児・高齢者など救助に配慮を要する乗客がほとんどいなかった点
  • 管制塔が事故を目撃、また交信の状況からすぐに異変を察知することができ、素早く通報を行うことができ、救助隊の現場到着が比較的早かった点

墜落後、もしも乗客達が集団で大きなパニックを起こしていれば、救助活動はより難航していたであろう。

しかし、決死の救助活動もむなしく、乗客24人が死亡。
死因は14人が頭部外傷、5人が溺水、4人が全身打撲、1人が頸髄損傷によるものだった。
死者はいずれも機内、前から11番目までに座っていた乗客であり、ここが生死を分けるボーダーラインとなってしまった。

墜落後の機長の動向とJALの隠蔽疑惑

墜落後、意識を失っていた航空機関士を除く副操縦士や客室乗務員は自らもケガを負ったものの、最後まで乗客の避難誘導と救助にあたった。
しかし、救助にあたる乗務員の中、どこを探しても機長の姿は見当たらない。
では、乗務員達が責務を果たす間、機長は何をしていたのであろうか。

事故調査委員会による聞き取り報告によれば、機長は事故の約40分後に乗客と共に救助ボートで救助されたとなっている。
だが、副操縦士をはじめとする乗務員が救助されたのは、ほぼすべての救助可能な乗客の救助を見届けた時―事故発生から50分以上が経過してからだった。
つまり、機長は今だ救助を待つ乗客や救助活動を行う同僚を残し、1人救助されていたのだ。

航空法第75条によれば、「機長は、航空機の航行中、その航空機に急迫した危難が生じた場合には、旅客の救助及び地上又は水上の人又は物件に対する危難の防止に必要な手段を尽くさなければならない。」とされている。
機長は飛行機を墜落させた上、救助という責務も放棄して事故現場を早々に引き上げたのだ。

結果的に機長が乗客と共にボートで救出される様子は報道され、世間から厳しい非難を浴びた。
しかし当時、事故直後の報道は「機長死亡」の第一報を伝えていた。
事故の混乱で情報収集がうまくいかず情報が錯綜した事、救命ボートに乗った機長が乗務員であると判別できるジャケットを脱いでいた事、そのためすぐに機長と判別できなかったためとも考えられるが、別の理由もあるのではないかと考えられる。
JALがマスコミに対してわざと誤報を流したのだ。

なお、JAL側が意図的に誤報を流したというよりは、後手の対処として誤報を流し、かつ情報収集の時間稼ぎをしたのではないかと考えている。

事故発生時点で、事故原因はわからない。しかし、機長が航空法を遵守せずに乗客を残したまま、さっさと現場を離れたとなれば、事故原因よりも先にこの「機長の不祥事」についてマスコミに叩かれる恐れがある。
万が一、事故原因もJAL内にあるのだとすれば、二重の糾弾を浴びる恐れがあるのだ。

我先に機長が救助されたことを知ったJALは至急機長を匿い、病院に入院させている。
あわよくば、「意識不明だった航空機関士のように、機長が救助に携われないような状態であったと世間に印象付けられればいい」という思惑もあったのかもしれない。
また詳しくは後述するが、機長は精神疾患の後に機長として復帰し、飛行機運航に携わっていた。

機長の精神上の問題の経緯を当然知っていたJALはこの問題と事故の因果関係を事故調査委員会より速く把握すべく、独自に調査を進めていたということも考えられる。
もしも機長の精神上の問題と事故に因果関係があった場合、口止め・情報操作によって事故捜査がJAL側に有利に働かないか、隠蔽工作を図った可能性があるのではないだろうか。

見過ごされた機長の精神疾患

機長は事故調査委員会の取り調べに対し、以下のように証言してる。
「着陸進入中(8:44 01秒)手動操縦に切り替えた直後、急におかしくなり全く意識がなくなってしまった。その後強い恐怖心を感じ、「イネ・イネ」というやまびこのような声を聞いた。」
「イネ」は「去れ」、「死ね」、「行ってしまえ」といった命令の言葉と思われる。
機長はこの暗示のような言葉が耳から離れず、この命令幻聴に従うように飛行機を墜落させるべく操作したようだ。
フライトレコーダーに残された操縦経緯から考え、8:43 25秒、墜落の42秒前、副操縦士の「ファイブ・ハンドレッド」のコールアウトに対し、応答を怠った時点から機長の心身の状況が急激に悪くなったものと事故調査委員会では考えているとの見解が示された。

また機長の心身の状態に関する調査は、JAL、受診歴のある病院 、家族・同僚にも及んだ。
そこから次のような事実が浮かび上がった。

1976年、機長はJAL系列企業に移籍する。
機長は元来明るい性格であったはずだが、この頃から言葉数が減り、陰気な印象になり始めた。
友人との交流も避け、家族に対しても異常な言動をするようになり、機長自身も 「自分の体調がおかしい」と感じるようになったという。

1980年には幻聴の症状が出始め、体調不良を理由とする乗務の取りやめ、雑なブレーキ操作などの異常な操縦が頻発、上司によって乗務予定取り消しの処分が下される。
その後機長は病院を受診し、医師から(一過性の)心身症という診断を受けた。
これに伴い、JALは機長に療養を指示。
機長は業務から外れることになる。

 療養期間中、機長は通院や服薬を続け、回復に向けての治療に励んだようだ。
1981年4月に、JALは社内健康管理部の診断に基づき、機長の心身の状態が乗務に差し支えないものと判断。
国内線の副操縦士として現場に復帰、11月には機長として復帰させる。

JALは乗務可能の判断を下したものの、機長の家族によると1981年時点では「自宅に盗聴器が仕掛けられている」と言い始めたり、食事だというのに席につかずに突っ立ったまま、動かなくなったりといった異常行動が散見させていたそうだ。
しかし、機長本人や家族や友人は精神的変調に関する情報全てを当時、医師に伝えていなかった。

家族や友人は医学知識もない中、「身内が不利になる話をしたくない、考えたくない」「まさか事故を起こすまでの状態ではあるまい」と考えていたようだ。
また、機長を診察していた医師間での病状の検討や情報共有が乏しかったことが調査報告書内で指摘されている。
後に機長の診察を受け持った医師は、先に「心身症」の診断をした医師の後輩にあたり、この診断を覆すのは、情報量の面でも医師の心理的にも難しかったようだと報告書内で指摘されている。

もしも家族や友人がより緊迫感をもって医師に機長の状況を伝えていれば、もしも医師が心身症の診断を覆し、精神疾患を疑っていれば、もしもJALが安全というものについて深刻に考えていれば。
1つでも、このもしもが叶っていたならば、350便の事故を防ぐきっかけになったかもしれない。
この世にもしもはないが、そう思わずにはいられない。

事故調査委員会は、事故の原因として機長の故意に行った誤操作が350便を墜落させたこと、そしてこの操作が機長の精神的変調によるものであることを認めた。

事故後の機長とJAL

事故後、機長は業務上過失致死罪により逮捕された。
しかし、精神鑑定により妄想性精神分裂病と診断され、心神喪失の状態にあったとして不起訴処分で釈放。
その後、機長は精神衛生法(現:精神保健及び精神障害者福祉に関する法律)に基づき、東京都立松沢病院に措置入院となり、約1年後にJALを解雇され、空の仕事の舞台から去った。

機長が精神分裂症であるにも関わらず乗務させていた点や乗客救助義務を怠った点について、安全を軽視しているとして、JALは厳しく非難される。
この350便事故を教訓とし、類似事故を防止することや乗務員の心身の健康向上のため、1984年、財団法人航空医学研究センター(現:一般財団法人 航空医学研究センター)とい医療機関を設立した。

最後に

350便逆噴射事故を経て、安全管理を徹底するだろうと考えられていたJALは3年後の1985年8月12日、死者520人の未曾有の大事故、日本航空123便墜落事故を起こす。
事故の理由は350便の事故とは異なるものの、「空の安全」に重きを置いていれば、起きなかった事故であろう。

大事故を起こした123便同様、JAL350便は今日まで欠番となっている。
飛行機による移動が当たり前となった今だからこそ、欠番にしたことであの惨事を忘れていないか、振り返る時なのかもしれない。

※一部の画像はイメージです。

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コメント一覧 (1件)

  • 今でこそメンタルダウンは一般的な疾病となっていますが、事故当時は口外できるものではありませんでしたね。たくさんの人が亡くなられていますが、事故を起こした機長本人もある意味では被害者だったようにも思われます。

    事故当時、私は高校生でしたが「逆噴射」は流行語にもなり、思い出の片隅にありました。うどんまるさんの卓越した文章や推察によって事故を振り返ることができました。

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