織田信長は、歴史上、最大の軍事的天才だろうと私は思っています。
その信長がもし本能寺で死ななければ、天下制圧後、日本の外へ軍を進めたのでしょうか?
信長の世界観
信長はキリスト教を手厚く保護しました。その理由は一つではありません。
先ず、彼は日本の仏教には憎しみに近い感情を抱いていました。それは宗教団体にあるまじきその体質にありました。
旧来の権力と結んで経済的利益を貪り、その既得権益を守る為に強大な軍事力さえ保持する組織は、戦国大名となんら変わりはありませんでした。
その宗教勢力が、一向宗や比叡山の様にあからさまに信長に敵対しました。
当然、信長は激しい敵愾心を持ったでしょう。
信長の本心
それに比べ、当時のキリスト教は貧困と迫害に晒されながら、地道な布教活動を行っています。
その事に信長は好感を覚えましたが、あの信長がその背後にある領土的野心を見抜けなかった筈はありません。
知りながらキリスト教を許したのは、宣教師が持っている世界の情勢や文化、軍事的技術など、外の世界に関する知識を吸収する為でした。
単なる興味だけで、危険が潜んでいるキリスト教を許す程、信長が甘いわけがありません。
そこには必ず海外進出の準備という目的があったに違いありません。
朝鮮出兵?
秀吉の朝鮮出兵は、信長が語っていた事の焼き直しだったと考えられます。
実際、天下取り当初の頃に、既に「唐入り」という言葉を信長が使っていた記録があり、
信長のお気に入り秀吉が、信長が座興で話す海外進出の夢を聞いていた可能性は大です。
しかし、信長の天下取りの足跡を辿った時、朝鮮出兵はなかったと思われます。
信長の本拠は長良川畔の岐阜城の、琵琶湖畔の安土城と、軍事・経済両面から水運を重視したものです。
秀吉の大阪城も、本願寺制圧後、瀬戸内水運を考慮した拠点としての信長の構想を真似たのだと言われています。
信長の野望
この方式を当て嵌めると、信長は朝鮮ではなく、中国沿岸部から東南アジアにへの進出をしたのではないでしょうか。
寧波(ニンポー)・廈門(アモイ)・香港・マカオの港を軍事的に占拠して経済的基盤を固めながら、
東南アジア各地にあった日本人町に進出して支配下に置くという戦略が信長らしく思えます。
一方で、石山合戦の際、本願寺を援助する強大な毛利水軍に対抗する為に、鉄板を張った日本初の巨大戦船・鉄甲船を信長は作らせています。
宣教師から得た知識で、いずれは外洋船として南蛮船も作ったことでしょう。
ここまでくると、信長の海外進出は現実味を帯びてきます。それはまさに南蛮の国々が世界進出した方法でした。
もしかしたら、日本・ポルトガル海軍によるフィリピン沖海戦があったかもしれません。
※画像はイメージです。
思った事を何でも!ネガティブOK!