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北方四島問題と日本海海戦

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日本とロシア両国間にある現在最大の懸案事項は、北方四島の帰属問題です。
領土問題はすべからく難問ですが、北方四島問題も全く解決の糸口が見えていません。

目次

ロシアの南下政策

現在のロシアの前はソ連。その前は帝政ロシアです。
海洋進出が国の繁栄の源となった時代、 ロシアでは冬季に凍らない不凍港獲得が国家的宿願となって、南下政策が始まった事は周知の事です。

日本でロシアの南下政策が直接的脅威となり始めたのは幕末です。
黒船でやって来た米国のペリー提督ばかりが、日本に開国を迫ったわけではなく、 ロシア艦隊も来航して1854年に日露和親条約が結ばれています。

これは単なる通商目的ではなく南下政策の一環の侵略が目的で、1861年にはロシア軍艦が対馬・浅茅(あそう)湾に侵入上陸して一部の土地を不法占拠しました。
これを撃退するだけの実力のない幕府は、 ヨーロッパにおけるロシア南下政策でロシアと敵対していた英国に働きかけてこれを何とか排除しました。
もしこの時そのまま占拠を許しておれば対馬はロシア領になっていたかもしれません。

日本海海戦

その後、明治なってからも日清戦争で日本が獲得した遼東半島の返還となった三国干渉もロシアが主導し、その上そこを清国から租借してロシア太平洋艦隊の拠点のなる旅順港と強大堅固な旅順要塞を作り上げました。

これによって黄海から東シナ海、日本海にかけて海洋覇権を獲得しようしたのは、正に南下政策の則ったものです。
日露戦争はこの南下政策を阻止しようとした日本との武力衝突なのです。

この時、バルト海のバルチック艦隊を北海から大西洋に出てアフリカ喜望峰を回り、インド洋から南・東シナ海を経て遥か日本海まで回航した上で日本艦隊を撃滅するという超大作戦をロシアが敢行したのは、悲願とも言える何物にも代え難い南下政策があるからこそなのです。
そして日本海海戦が行われました。

北方四島

太平洋戦争は1945年8月14日のポツダム宣言受諾と、15日玉音放送により終戦となりました。
ソ連が日本領であった南樺太に侵攻したのが16日です。
南樺太守備の日本軍は停戦後にも拘らず自衛戦闘として応戦します。

日本と連合国との講和条約締結の前日、9月1日までにソ連は千島列島から北方四島までを占領しました。
ソ連の侵攻は北海道占領を最終目的としたもので、南樺太守備隊の抵抗がなければそれは成っていたかもしれません。

そして北方四島はソ連、そしてソ連崩壊後は現ロシアに実行支配されたままです。
以来現在まで返還交渉が続けられていますが、進展する様子は全くありません。

ロシアの南下政策は理屈抜きとも言えるロシアの精神そのものなのかもしれません。
そう考える時、北方四島問題の困難さを思わざるを得ません。

歴史大好きじいさんです。
歴史は連綿と続いています。現在の問題は、過去の歴史に繋がっています。

※画像はイメージです。

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