1560年に起きた桶狭間の戦いでは、当時無名であった織田信長の名声を全国に広めました。
勝ち目はないと多くの人が思った戦いを勝利に導いた、なぜ信長が勝利出来たのか?
いわば謎のある戦いを私なりに考察していきます。
今川家の動向
足利将軍家の一族である、吉良家の血を引く名門今川家。今川家の当主の今川義元は駿河や遠江などに勢力があり、天下に近い大名といえました。
一方尾張の守護代としてようやく歴史上に名を刻み始めた織田信長、家督を継いでわずか10年足らずで生涯で最大の危機に見舞われてしまいます。
桶狭間の戦い当時の今川家の石高は70万石はあったと言われ、一方、織田信長はあくまで守護代として動員できる兵力も限られた状況下にありました。
そもそも織田信長が家督を継いだ頃、尾張国内は不安定であり、桶狭間の戦いを迎える直前まで領内で多くの戦いを経てようやく家中が一つになりつつある、いわば新しく育ったばかりの勢力といえました。
今川家は血筋的にも実力的にも全国を統一できる勢力があり、京都への道筋を確保に尾張地域を自分の勢力下に置く事は大事であり、よくやく基礎を固めたばかりの織田家がこれ以上大きな勢力にならないためにも、織田家との戦いを行う事を決意します。
兵力の違い
織田信長が桶狭間の戦いで動員した兵力が諸説ありますが、せいぜい多めにみても三千名程度だったと言われています。簡単に屈服させる事ができると考えた今川義元は、およそ25,000~30,000人を超える軍勢で尾張地域に進軍していきます。
今川義元の軍勢は織田家の領地と隣接し、勇猛で名高い三河武士を統率する松平元康(後の徳川家康)を先発隊にするなど、いわば余裕のある負けるはずのない戦いを序盤戦は繰り広げ、続々と織田家の勢力下にある砦を落としていきます。
確かに序盤戦は織田家は不利でしたが、織田家には軍の構成において他の大名と違う特性がありました。織田軍は武士たちを主力に構成した軍団であり数こそ少数でしたが、戦う集団としては極めて統率のとれた集団。対する今川家は確かに動員数は多かったものの、その多くが農兵と呼ばれる雇われに近い兵士で、いざ生死を分けた戦いになると、どの程度、主君のために戦えるか未知数な部分がありました。
情報戦と地の利
桶狭間の戦いは兵力だけ見れば織田勢に不利な戦いであったものの織田勢は地の利を生かし、情報戦で相手を上回る戦いをしていきます。まず地の利を生かし自分たちの領土である尾張領内に多くの砦を築き、織田軍は今川軍の兵力を分散化させる事に成功しています。
また織田軍は梁田政綱という人物を通じ、今川義元の軍勢の動きを正確に把握する事に成功しています。
政綱は地元の沓掛に住み周囲の地形には精通した武将、序盤戦での今川軍の勝利は今川義元たちに油断をもたらして
しまいます。
各地に散った今川軍は一時的な勝利に気を良くし、主力の今川義元の兵は桶狭間でしばしの休息を取ります。そして酒宴を兼ねた昼食をとり、戦前通り、順調に進んだ戦いに今川義元は満足したと言われています。
この休息をとっていた時間帯に、尾張地方は大雨が降り視界が悪い中、狭間地帯で休息する今川義元を討つべく兵を進めていく織田信長。雨は織田軍にとり軍勢が移動する様子を分かりにくいものにしてくれました。
さらに雨が今川方の前面を遮り、織田方に背中を押す形で吹きかけてきて織田方に有利に働いたと言われています。
桶狭間に接近した時の織田軍は2千名程度でしたが、ほとんどが武士中心の精鋭。
不意を衝かれた今川軍は、奇襲に驚き逃亡するものが続出した事にに加えて、今川義元の周囲に多くの兵士がいたため、容易に今川義元の位置が把握できたと言われています。
桶狭間は地形的に高い草が生い茂る場所であり、大軍の移動もままならぬ事も今川軍に不利に働いたと言われています。それにしても負けるはずがない戦で序盤は有利に進めながらも、織田軍に情報戦と自らの油断が災いして負けてしまった今川義元。
結論からすると
現在でも今川義元が桶狭間の戦いで敗北した要因を様々な観点から分析されており、統一した見解があるわけではありません。
おそらく新しい資料でも出現しない事にはなぜ織田信長という、ようやく尾張一国を統一したばかりの武将が、足利将軍家に縁ある名門大名に勝利できたか明確に説明するのは難しいのかもしれません。
しかし確かに言えるのは、桶狭間の戦いで織田信長という人物が歴史的に戦国時代を代表する大名として認知される戦いになったといえそうです。
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