おじろく・おばさは実在する

中部地方のとある地域では、「おじろく」「おばさ」と呼ばれる存在がいたという。
彼らは、一見人のようだが、外に出ると無気力、無表情、俯き加減で、話しかけても返事が返ってくる事は少ない。
だが家の人間を助けてよく働き、家を栄えさせるという。
座敷童子か、それに類する存在、とでも言うのだろうか。

おじろく・おばさの観測

妖怪物語っぽい導入だが、端的に言うと主人と血が繋がった奴隷の事である。
長野県の下伊那郡の一部で実際に行われていた習慣であり、「おじろく」が長男以外の息子、「おばさ」が娘を意味する。
家や農地が限られた社会で、結婚して家を継げるのは長男だけであり、それ以外の子供は単なる労働力を提供する家内奴隷として利用された。

これを調査した近藤廉治氏（信州大学医学部神経科）によれば、この奇習は、１６～１７世紀頃から始まったという。
いつがピークだったかは定かではないが、明治５年（１８７２年）に人口２０００人中１９０人、昭和３５年（１９６０年）時点で３人となり、終焉間近であった。

彼らは、子供の頃は普通だが、２０才を過ぎた頃から無愛想になり、無表情で、家庭内でも軽んじられる。性的な興味もないようで、結婚する事もごく稀。
こうして奴隷化したおじろく、おばさだが、何か不満を言う事も無く働き続けたという。
それを異常性と見る事は出来まい。
長男のために働き続ける事が当たり前、自分はそうする存在と教え込まれていれば、不満を感じる心が育つ道理はない。子供の頃は普通、というのは、長男が死んだ時の予備として、一定の年齢までは「人間」として育てておいたのだろう。

七五三という風習に見られるように、昔の子供は七歳ぐらいになるまでは、いつ死んでもおかしくない、あの世とはっきり分かれていないような存在と認識されていた。
無論、長男の「出来」が悪い場合、途中またはごく初期から「交換」されたであろう事は想像に難くない。

オスマン帝国の事例

何とも酷い話のようだが、広い目で考えれば、それほど珍しい話でもない。
オスマン帝国においては、皇帝は皇位継承者達を幽閉したという。
「黄金の鳥かご」と呼ばれる慣わしで、皇帝が簒奪を恐れたという事情もあるが、それだけなら独りを残して殺せば良い。
複数生かしているのは、系統を絶やさないため、そして管理出来る場所に置くためという理由だろう。
おじろく、おばさの、幼少時の長男の予備としての役割と近い。

こんな育てられ方をした後継者がどんな皇帝になるかと言えば、想像の通りである。
２５年を黄金の鳥かごで過ごしたイブラヒムの例では、性的倒錯の末、ハレムの者達を袋詰めにしてボスポラス海峡に投げ込んだとされる。

アメリカの事例

アメリカの場合、奴隷制度のあった時代は公式におじろく、おばさを認めていたと言って良い。
具体的には『アメリカ合衆国憲法修正第１３条』の批准が布告された、１８６５年１２月１８日、または、最後まで批准しなかったミシシッピー州による批准日、１９９５年３月１６日までの期間である。

アメリカが法的に人種を区分する時、「ワン・ドロップ・ルール」と呼ばれるルールを用いる。
この「ドロップ（一滴）」は、「黒人の血」を指す。
黒人の血が、祖先のどこかに入っていれば、黒人として扱われるというルールである。
白人との混血であるバラク・オバマが「黒人大統領」と呼ばれるのはそのせいである。
愛国無罪ならぬＢＬＭ無罪の現代のアメリカなら、黒人というアイデンティティはプラスの意味になるが、奴隷制度があった時代はそのまま奴隷という身分になる。

従って、白人の主人が黒人との間に作った子供は、全てが生まれついての奴隷になった。
この場合、肌が白かろうが、「長男」がいなかろうが問答無用で全員が奴隷であるから、おじろく、おばさよりもシビアかも知れない。

家族の為に

世界一の超大国が、３０年前までやっていた制度と考えると、おじろく、おばさは奇習でも何でも無く、割と世界的にスタンダードな習慣であると考えて良いだろう。
野生動物でも、兄姉の餌として卵を追加で生む例はある。

それでも何となく、不気味さを感じさせる響きが概念であるのは、それが妖怪的な性質を帯びるからだろう。
ある種の妖怪は、人間の醜さや辛さの擬化である。おじろく、おばさも人間のある側面を、寓意的に表しているのではなかろうか。

身近に、いないだろうか。
「家族」のために働く事を小さい頃から教え込まれ、「家」から離れられず、愛する相手もいるのやらいないのやら、楽しみらしい楽しみもなく、無気力に働き続けるしかなくなっている者が。

いや、或いはあなた自身が。

参考：１９６４年６月『精神医学６巻６号』Ｐ．４１９「未分化社会のアウトサイダー」