桶狭間の合戦前夜、信長は何を考えていたのか?

  • 2021-01-05
  • 2020-12-31
  • 戦史
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若き信長がおかれていた状況を分析すると、 桶狭間の戦いで信長が考えた戦術が浮かび上がってきます。

近習

近習とは、主に小姓と馬廻衆のことです。
小姓は主君の身の回りの世話をし、馬廻衆は主君の安全を武力で守ります。

彼らは家臣や豪族・国人などの子弟から選ばれることが多く、常に主君の最も身近に仕えているので、主君との結び付きが強いのが一般的でした。男同士の性愛である衆道の風習があったこの時代には、衆道故の強固な関係になることも珍しくありませんでした。

信長の状況

少年時代から「尾張のうつけ殿」と国内外で評された信長は、家督を継いでからも、その廃嫡を目論む家臣が少なくありませんでした。

そんな家臣の中には織田家筆頭家老の林秀貞や、後に第一の重臣となる柴田勝家もおり、実際、桶狭間合戦のたった4年前に信長の弟を当主にしようと、彼らは信長と武力衝突していました。

桶狭間合戦の頃は、それに勝った信長に家臣たちが辛うじて従っている状態でした。
主君を信頼しない家臣たちを、信長が信用できるはずはありません。

そんな中で信長は、悪童と呼ばれた時代から生活を共にしてきた、前田犬千代(後の前田利家)のような近習を中心に親衛隊とも言える、本当に信のおける家臣団を作り上げていました。

近習中心の軍勢

桶狭間合戦前日、信長はその戦評定で家臣たちに何も指図しませんでした。
強い不信感を抱く家臣たちを残して、彼は寝てしまいます。

そしてその夜遅く、信長は突然ほとんど前触れもなく単騎で出陣します。
従うのは近習の数騎のみ。続く軍勢も小姓・馬廻衆の近習ばかりでした。
信長の身辺に侍る彼らしか信長の素早い動きに反応できなかったのです。

三々五々信長に追いついた軍勢は、二千とも三千ともいわれますが、それは信長を心底信頼し、信長も絶対の信用をおく近習を中核とした軍勢でした。

信長の戦術

圧倒的多数の今川勢を破るには、主将義元の首級を挙げるのが唯一の方法だと信長は考えました。
そのためには多勢の有利に奢っている敵勢が信長の意図を察知する前に、恐れや迷いのない一糸乱れぬ攻撃で、鋭い錐で突き破るように分厚い敵陣を突破し本陣の義元に到達することが必須でした。

それを可能にするのは、己と強く結ばれている近習の軍勢しかないと信長は考えたに違いありません。
信長のこの考えは適中しました。

歴史大好きじいさんです。
桶狭間の合戦で、なぜ信長が勝てたのか。たくさんの仮説があります。

参照:信長の親衛隊 谷口克広 著
※画像はイメージです。

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