それぞれの記憶

おこめやさんだったお爺さんは、幸い戦中戦後と米にはとりあえず困らなかったようですが、それでも赤米という米を食べた記憶があると母は言っていました。

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赤米とは

赤米とは玄米の種皮とありますが、臭かったと言っていました。
母は佃島に住んでいて幸い秩父に疎開をしたこともあり、しかも奇跡的に家が残ったようです。

運が良かったのですが、食糧難にかわりはありません。周りはみんな栄養失調であったし、自分もそうでしたがみんなが貧乏でしたのでそれがおかしなものでもなかったようです。今とは環境がかなり異なったと思われます。

周りが下駄をはいていた時代

周りはまだ靴がなくて下駄をはいていた時代でした。我々は下駄箱と言いますが、本当に下駄をはいていた時代があったのだと思いました。どうも物不足は戦前も当然ありましたし、戦中もあったようですが戦後もかなり厳しかった事が伺えます。

正直配給自体がほとんどあてにならない状態ですので、それこそ雑草も食料にしていたようです。お尻ふく紙すらなく新聞紙で拭くのでお尻が黒くなったと言ってました。

道楽が少ない時代にまだ橋が出来てないところでは舟渡というのがあったようです。船が橋の代わりになったのです。それは無料で乗れるので面白がって乗っていると、船頭さんに叱られたというおもいでがあったようです。

昔は良かった

でも不思議と昔はよかったという事を言います。確かに物不足だったのですが、それなりに戦争も終わって幸せを実感できていたのかもしれません。しかし祖母は違ってました。本当に食料に困ったようでした。

クジラの肉はたんぱく源でしたが、石鹸の材料となっていました。母はクジラの肉は日本の貧しさの象徴と考えているらしくいい思い出がありません。
鮮明に残っているのが戦後すぐにもメロンがあったようです。
あんな高価な価格の果物を一体誰が買うのか・・・といつも思っていたと。

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