残酷・冷血な大久保利通

  • 2021-02-16
  • 2021-02-14
  • 戦史
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幕末から明治維新にかけての立役者であり、明治新政府の中心人物である大久保利通。
その人間的評価としては「冷血・冷徹」と言われるほど、さほど人気があまりないようなイメージが定着しております。
大久保利通の親族にとってはとても温和で優しく家庭的だったことが伝えられていますが、世間一般にはそれとは相反するイメージです。
ここではそういわれるようになったきっかけとも考えられる「佐賀の乱」について考察します。

概要

1873年に日本国内で沸き起こった「征韓論」と、その是非について明治政府が大きく二分し対立してしまった「明治六年の政変」が起きます。
征韓論に賛成を唱える西郷隆盛・板垣退助・江藤新平らに対し、対する岩倉具視・大久保利通・木戸孝允ら西欧帰国組は時期尚早として断固反対を唱えます。
そして一度朝鮮へ出兵が決まりかけた議決内容を岩倉らの裏工作によりつぶされ、そのことに異を唱え、西郷ら賛成組は一斉に辞職します。

下野後

征韓論に敗れ、辞職によりそれぞれ故郷へと下野していくのですが、大久保利通が一番恐れたのは下野後に過激派らが結集し、士族反乱を起こしかねないということでした。
そのため辞職は認めるも下野は認めなかったのですが、誰もその意見に耳を貸しません。
そんな中元佐賀藩士族である江藤新平は、その意思はなくともやむを得ず士族反乱の渦中へと放り込まれていくのです。

佐賀の乱勃発

ついに大久保利通が恐れていたことが起きます。
佐賀へ下野する江藤新平は、暴徒化する佐賀士族の暴発を食い止めるための帰国だったのですが、その勢いは止めることはできず、ついに江藤新平をトップに佐賀の乱をおこします。

一時佐賀城を占拠した反乱軍に対し、大久保利通はその動きを事前に予測しており、みずから佐賀へとおもむき、陣頭指揮をとります。
その後新政府軍によってあっさりと反乱軍は沈静化され、江藤新平は薩摩藩への決起をお願いするべく西郷隆盛のもとへ出向きますが、結局拒否されます。
その後土佐藩の板垣退助を頼るのですが、その道中新政府軍にとらわれてしまいます。

江藤新平への冷酷な処遇

土佐藩内で捕縛された江藤新平はその後佐賀において大久保利通が急遽設置した裁判所にて裁判が行われるのですが、この裁判自体は暗黒裁判と言われ、江藤新平の答弁も上告も認められず、最初から処罰ありきの非常なるものでした。

その裁判の結果江藤新平に申しつけられた処罰は斬首によるものでした。さらにはその首を世間に政府にたてつくことへの牽制としての見せしめとしてさらし首にします。
数か月前までともに明治政府内で参議を務めたものに対するあまりにも冷酷な処遇でした。

最後に

このエピソードが印象深いためか、大久保利通=冷酷・冷徹というイメージが付きまとったのではないかと推測されます。
元々大久保利通と江藤新平は互いに憎しみあうほどの不仲であったと言われ、その?私怨ゆえにおこしたのでしょうか?

※画像はイメージです。

 

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