「遠山の金さん」など江戸時代の町奉行を描いたドラマがありますが、大岡越前は大岡裁きとも呼ばれており名奉行だったという設定ですが、そのほとんどはフィクションだったとも言われています。
彼は裁判官よりも政治家としてその才能を発揮した人で、特に享保の改革では数々の業績を残していますが、実際はどうだったのでしょうか?
大岡越前とは
1677年に大岡越前こと大岡忠相は旗本の四男として生まれ、幼い頃から勉強や剣術などに励んでいました。大岡忠真の養子になり、従兄の忠英の事件によって閉門処分になってしまいます。その後罪が許されるようになり、大岡家を継ぎます。大岡忠相は寄合旗本無役から書院番に出世していくと大きな仕事を任されるようになっていきました。
元禄の大地震では復旧役に抜擢されており、徒頭から使番、そして目付となって順調に出世します。目付という役職は旗本や御家人などの監視する役目のことで、勤務態度など政務全般の監察が主な業務です。目付は町奉行への通過点にもなっており、山田奉行などを経験し、徳川吉宗が将軍になると1717年彼は南町奉行になります。
当時奉行になる場合60歳前後が多かったですが、彼は40歳頃で就任したので異例の出世になります。中町奉行に坪内定鑑がいて彼の名のりが能登守でしたが、これは大岡と同じだったので越前守になり「大岡越前」が生まれたのです。
大岡越前の実績
大岡越前は異例の出世スピードで駆け上っており、名奉行としていろいろなエピソードが残っています。特に彼が伊勢山田奉行時代の5年間においてさまざまなストーリーが残されており、例えば伊勢山田奉行時代に、幕府領と紀州藩領による境界が争われていました。彼は権威に屈することなく、公正に判断を行なって境界を定めることにより将軍から認められたと言われています。
将軍吉宗は有名な享保の改革を実施しますが、その成功には大岡越前の存在が関係していたと言われています。彼は推進役を任されるようになり、彼は消防署の元祖である町火消しを組織化し、江戸を火事から守りました。当時江戸は火事の多い都市でしたが、町火消しのお陰で火事を抑え込むことができ、江戸の男たちの粋な名物としても人気があって女性ファンも多かったそうです。
いろは48組や深川16組などが組織化されており、避難路として広小路を設置し火除地なども作りました。交番や消防署などの機能を持った自身番が置かれるようになり、屋根には火の見梯子や半鐘などが設置されると、江戸の防火体制が強化されるようになったのです。1722年になると、大岡越前は医療施設である小石川養生所を設置し、街の人々を無料で治療します。この養成所は目安箱に寄せられた庶民の意見から生まれたもので、140年間たくさんの人を支える医療施設になります。
彼は青木昆陽を書物奉行に任命しており、飢饉になった際に利用する救荒食物としてサツマイモを試作し、関東地方に広まりました。大岡越前は街の整備に力を入れており、今日あるさまざまなサービスの元を制定しています。
大岡裁きは実在したのか?
町奉行としての裁量の見事さから、大岡越前は庶民の間で名奉行と言われていました。小石川養生所を建てたり、江戸の火事撲滅に力を入れた人柄から、彼は庶民の味方として知られていたそうです。
当時は庶民の文化が盛んだった頃で、創作「大岡政談」としてさまざまな写本や講談に彼の話は扱われていました。三方一両損や徳川天一坊などたくさんのエピソードがありますが、中でも有名なものは「子争い」でしょう。これは一人の子供をめぐって二人の女性が自分が母親だと主張する話です。二人の主張がおさまらないので、大岡越前の裁きを受けることになりました。
大岡越前は二人の女性に、「子供の腕をそれぞれ持って引っ張り、勝った者が母親である」と提案します。二人の女性は子供の手を引っ張りますが、子供は痛いと叫びました。片方の女性はすぐに手を離し、もう片方の女性は勝負に勝ったと子供を連れていこうとします。大岡越前は手を離した女性の方が母親だと見抜き、子供はきちんと母親の元に帰ることになったそうです。
大岡越前の晩年
大岡越前は南町から寺社奉行などに異動になり、奏者番なども兼任するようになって、最終的に三河国西大平(現岡崎市)で10,000石の大名になりましたが、これは異例のことでした。1751年将軍が亡くなり、彼の葬儀を手配している中で大岡越前は体調を崩します。辞任するようになり、自宅療養していましたが1752年に亡くなりました。
神奈川県茅ヶ崎市には彼のお墓があり、茅ヶ崎の市街地を抜けると浄見寺が見えてきます。大岡忠政が先祖を慰霊するため建立したのがこの寺の始まりで、菩提寺になりました。
最後に
大岡越前の業績は知られており、いろいろな時代劇や話に登場しています。江戸の庶民のためにいろいろな政策を行なっており、人柄が溢れる裁きのエピソードはさまざまな物語として受け継がれています。庶民のアイドル的な存在で、「大岡政談」と呼ばれる歌舞伎や講談によく創作されました。
享保の改革において徳川吉宗をサポートしながら、江戸の治安や防災・病院建設などと庶民のために尽力したことによって、人情味溢れる裁きと共に民衆の心を掴んだのでしょう。
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