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あんまり知られていない大坂城の話 その1

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大坂城は秀吉が建てたことで有名ですが、歴史ファン以外にはあんまり知られていないけど興味深い話をご紹介しますね。

みなさん、大阪城は豊臣秀吉が建てた城だというのは有名ですよね。
あの場所は、もともとは一向一揆のもとの石山本願寺があったところで昔から交通の要所ではあったけど、大坂という大きな街になったのは大坂城が築かれた後のことです。
そもそも大坂というのも、秀吉が初めて城主となって今浜という地名を長浜に改名したのと同じく、「大」とか「長」とかいうのが大好きな秀吉が命名した地名なんです。

そして秀吉の死後、関ヶ原の戦いがぼっ発し家康が江戸幕府を開いたのですが、秀吉の息子の秀頼がこの大きなお城にいる限り安心できないということで色々と難癖をつけて、大坂冬の陣と夏の陣を起こし滅ぼしてしまいました。
秀頼は当時もう22歳になっていて、家康の孫娘の千姫と政略結婚していたし、側室がうんだ子供もいた立派な大人だったのです。
秀頼が秀吉の実の子かどうかは当時から疑われていて永遠の謎ではありますが、秀頼の祖父母で、母の淀殿の父浅井長政も母お市の方も大柄だったということで、母方の遺伝でしょう秀頼はかなり大柄でデブっていたそう。

そして意外に知られていないのですが、歴史学者の方によれば「豊国大明神」という今も残る秀頼の筆跡を見ると、相当かなりすごく頭の良い人だったろうということで、これにはびっくりしますよね。
だって大坂の陣で、あの真田幸村(信?)が秀吉以来の千成ひょうたんの旗印とともに出馬することで、敵陣の秀吉恩顧の大名に動揺が走るうえに味方を鼓舞して勝利につながる、それにみんな秀頼のために命をかけて戦ってるんだから、兵たちを励ましてほしいと必死で出馬を要請したのに、母淀殿があぶないからだめとヒステリーを起こしてとめるもんだから、秀頼は素直に一度出陣支度をして出そうになったけど、やっぱり奥に引きかえした話があるのです。

■豊臣秀頼Unknown author / Public domain

これって、いくら若くても武家の総大将のすることじゃないし、賢さもカリスマ性も発揮できず、育てられ方を間違ったとしか思えないですわね。
冬の陣でも籠城を続けてがんばっていたのに、家康が淀殿の部屋の近くに大砲をぶちかましたら、侍女がそれにあたって亡くなったとかで(当時の大砲は鉄の球が飛ぶだけで爆発はしないタイプ)、淀殿がヒステリーを起こして和睦しちゃったために、家康の策略で堀を埋め立てられて裸城にされてしまいました。

なので夏の陣は、外に出て戦わざるを得なくなったということです。
そして真田幸村(信?)や後藤又兵衛基次といった有名な武将が次々戦死して敗戦となりました。
秀頼や淀殿はどうなったかといいますと、次女やお付きと一緒にこの大きな城の隅っこにあった糒の土蔵の中に逃げ込んじゃったの。
天守閣を枕に立派に切腹したんじゃないんです。

たしか、自分たちはその蔵に潜んで、家康に助命嘆願にやらせたのが家康の孫で秀吉の正室の千姫だったか、大野治長だったかで、この期に及んでもまだ自分たちだけは助かるつもりだったよう。
が、家康たちはそんなところに隠れてるのかと頭を抱えて、これは自害しかねえべと情け容赦なく大砲とか鉄砲を撃って助命嘆願拒否を行動で示したところ、やっと蔵のなかで自害して火の手が上がり、焼け跡から遺体が発見された豪華な衣装の切れ端とかで確認しただけ、というちょっとこの大きな城の主にしては情けない最期なんです。

それに誰もはっきりと身元確認していないので、秀頼らが脱出して生き残った説もあるんですわ。
司馬遼太郎氏は「城塞」という小説を書き、あれだけ大きな城だから何かあるだろうと思ったけど、何もなかったと書かれていましたね。
なお、大坂が大阪となったのは明治後で、坂が土にかえるというのはよくないということからだそうです。

※画像はイメージです。

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