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大阪城の知られてない話 その2

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大坂城の話の続きですが、こっちもあまり知られていないと思いますのでご紹介しますね。

それで今現在の大阪城ですが、ある意味レプリカなのです。
徳川家康は大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした後、大坂城あとを埋め立てていったん更地にしたのだそうです。
そして一からまた新たに大坂城を築城したのです。

なので、現在の大阪城は秀吉が作ったのではない、徳川家が作った大阪城なんです。
これは天下普請という、例によって諸大名に労役もお金も出させて作らせのですが、あんな大きな城を埋め立てて作り直すところが、家康らしい執念深さというかねちっこさだと誰かが言っていました。
ということで、天守閣も石垣もまっさらの徳川家の大坂城が出来上がったんです。

そして江戸時代は江戸幕府の直轄地だったので、大坂城には城代が置かれていました。
なのになんで大坂にお城が必要だったかといえば、江戸幕府は薩摩の島津家と長州の毛利家を仮想敵国と考えていたので(幕末にそれが現実に)、江戸へ攻めてきたときの対策として、岡山城、姫路城、大坂城、名古屋城、箱根と、守りを固める必要があったということから。

3代将軍家光の弟の忠長、あの家光がおっとりしているので父秀忠と母お江が可愛がって跡継ぎにと思った(大伯父の信長に似て才気走っていた説あり)あの忠長が、大坂城が欲しいと言ったこともあって、切腹に追い込まれたんですね。
これはやっぱ、将軍の弟としては禁句だったらしいです。

さらに大坂城を調べてみると江戸時代になんどか火事にあって、火薬庫が爆発して大惨事が起こったりしていて、天守閣も焼けちゃったんですね。
しかしなんといっても、江戸時代の大阪城のクライマックスは幕末です。

15代将軍徳川慶喜は水戸藩主斉昭の7男ですが、子供の頃からすごい秀才とか英邁の誉れ高くて、将軍家慶の正室が有栖川宮家の出身で慶喜の母の姉だったつながりがあって、自分の息子で障害持ちの家定よりも次期将軍にしたいと思って、御三卿の一橋家の養子にしたくらい期待されていた人です。

しかし嫌々将軍になったと本人が晩年に語っていたくらいで、鳥羽伏見の戦いで負けた後、決戦をと騒ぐ幕臣たちに対して、「明日は決戦だ!」とげきを飛ばしたあと、こっそりと裏口から逃げだし、舟に乗って天保山沖に向かい、開陽丸に乗って江戸へ帰る、ということをやらかしてくれました。

自分の身代わりに大将となって戦われると困るので、ご丁寧にも会津藩主松平容保、弟の桑名藩主松平定敬、老中たちも連れて行きました。
総大将がこっそり抜け出して逃げてしまうなんて前代未聞のことで、私は慶喜アスペルガー症候群説を声を大にして言いたいです(明治後長生きしたので、ほかにも香ばしい話があるし)。

会津藩主らはどう考えても誠実そのもののお殿様なので、慶喜に脅されたとか、江戸で必ず決戦するからとか言われたのだと思いますが、置いてきぼりをした家臣たちに平謝りし、明治後も一切話すことがなかったそうです。
なお、江戸へ帰った慶喜は、勝海舟に一切丸投げして自分は寛永寺にこもってしまい、会津藩主らは江戸から出ていけと追い出され、会津戦争では薩長の憎しみを一身に受けて理不尽なまでに攻撃されたのは有名です。

そういうわけで、大坂城は最後の将軍慶喜らがトンズラした後、失火で焼けちゃったそうです。
で、今ある天守閣は昭和3年に建てられたもので、エレベーターつきで博物館になっています。

有名なお城にはそれぞれ色々な逸話がありますが、あれほどの名城の大坂城にしては、豊臣秀頼といい、徳川慶喜といい、本当に頭が良かったのかもしれないけど、城主としてはとんでもない行動をとったという共通点があるのが不思議だと思ってご紹介した次第です。

■その1はこちら。

※画像はイメージです。

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