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インパール作戦のもう一つの顔

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インド・インパールの英軍を駆逐しようとしたインパール作戦は、日本では帝国陸軍戦史、史上最大の汚点とされています。
しかしそのインパール作戦には全く違った一面がありました。

目次

インド国民軍

インドの独立といえば非暴力・不服従のガンディーが有名ですが、対照的に武力闘争による独立を目指したのがチャンドラ・ボーズです。
首都デリーの真ん中には兵士を指揮する彼の銅像が建っており、その兵士達の持つ銃が着剣した三八式歩兵銃に見えます。

インパール作戦では、帝国陸軍の将兵と共に、捕虜になった英国軍インド人兵士を中心に編成されたインド国民軍も参加していました。
インド国民軍の指揮をとったのがチャンドラ・ボーズです。その目的はインドを英国支配から武力解放する事でした。

■ガンディーとボース(右)1938年
See page for author [Public domain], via Wikimedia Commons

日本軍は解放軍

ビルマ国境に接する、インド・ナガランドのチャカサン村の村人達は、日本軍が英国から自分達を解放してくれると信じて進んで食糧を提供してくれました。また独断退却で知られる佐藤幸徳中将率いる第31師団がジャカム村に駐屯した時にも、 村の長老が自分達を助ける為に戦いに来た兄弟(日本人)を食糧で支援すると表明しました。

佐藤中将はその好意に報いる為に、その場で各部隊に電話連絡し、ナガランドの住民に危害を絶対加えるべからずという命令を発したといいます。
特に女性に対する接触は厳禁で、身体に触れた兵士は即刻銃殺刑に処すと厳しく布告しました。

インドの人達にとっては、日本軍は英国の支配から解放してくれる正義の軍隊だったのです。

インパール作戦はインド独立戦争

「インド解放の為に戦ってインパール・コヒマで散華した日本帝国陸軍将兵に我々は深甚なる敬意を表し、 インド国民は彼ら日本人将兵に対する恩義を末代まで忘れません。」
これは、元インド国民軍大尉で、今は全国在郷軍人会代表のある人物が1998年に言った言葉です。

日本敗戦後の1945年11月、英国はインパール作戦で敵対したインド国民軍の将校3人を反逆罪で極刑に処する決定をしました。
これに反発してインド国民が蜂起し、大規模な暴動や対日戦勝パレードのボイコット、弔旗掲揚など反英国活動が活発化し、 最終的に1947年8月インドは独立を勝ち取ります。

現在のインパール

インパール地方のマパオ村では今でも「日本兵士を讃える歌」が歌い継がれ、ロトパチン村には日本兵慰霊塔があって毎年慰霊祭が催されているといいます。
極東軍事裁判でインド・パール判事がだた一人被告全員の無実を主張した事が、この様なインド国民の対日感情と無関係だったと言い切れるでしょうか。

インドの人々にとっては、インパール作戦は独立という悲願を達成する為のインド独立戦争そのものだったに違いありません。

 

歴史大好き爺さん
歴史の事件とは複雑なものです。その評価は簡単には下せません。

参考:
COURRIER「日本軍が去った後、村は日の海と化した」目撃者が語るインパール作戦の真実
RONNA インパール作戦をただの「無謀な作戦」というなかれ。井上和彦

※写真はイメージです。

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