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マレー・シンガポール攻略作戦はどう成功したか

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太平洋戦争の開戦と同時に始まった日本軍によるマレー半島とシンガポールの攻略
日本軍の勝利で終わった理由を解説します。

目次

目的

日本軍がマレー半島とシンガポールを攻略する目的とは何か?
日本は東南アジアにある油田など資源地帯を占領するのを目標とした南方作戦を実行する為です。
東南アジアで石油が産出されるスマトラ島やボルネオ島などのオランダやイギリスの領土です。しかし、それらの島の前にはイギリス領のマレー半島とシンガポールがあります。

シンガポールは軍港があり、イギリス東洋艦隊の拠点になっていた。
またイギリス空軍の飛行場がシンガポールとマレー半島にある事も南方作戦を行う日本軍にとって脅威になります。
逆にシンガポールの軍港や飛行場を手に入れれば、日本軍の南方作戦を行うのに役立ちます。
日本軍の南方作戦を行うには、マレー半島とシンガポールを攻略する必要があったのです。

作戦構想

マレー半島とシンガポールの攻略作戦をどのように進めるか?
シンガポールにはイギリス軍の要塞があり、海から攻めるのは困難でした。
そこでマレー半島からシンガポールを北側から攻める事になり、マレー半島を攻略してからシンガポール攻略にかかる事になります。

そこで問題になったのはどの段階でマレー半島に上陸するかだった。
海軍は制空権を獲得してからマレー半島への上陸を行うべきだと主張し、陸軍は開戦と同時に奇襲上陸してイギリス軍の体勢が整わない間に進撃するのを望んだ。
最終的に陸軍の案で決定され、飛行場が上陸地点から近いコタバルへ開戦と同時に上陸する事になった。

作戦の実行

1941年(昭和16年)12月8日の開戦と同時に日本軍はマレー半島に上陸します。
日米の緊張状態から警戒態勢にあったイギリス軍は待ち構えていて、奇襲とはならなかった。それでも日本軍はマレー半島各地のイギリス軍を破り、進撃を続けます。

この間に、マレー沖海戦で英東洋艦隊の戦艦2隻を海軍航空隊が撃沈し、マレー半島周辺海域の制海権は確保されます。
2月15日にシンガポールは陥落し、日本軍は南方作戦最大の脅威を取り除きました。

作戦成功の理由

マレーとシンガポール攻略は大本営が攻略を100日と設定していました。
これは南北1000kmを越えるマレー半島を1日10kmまたは20km進まねばならなかった。
突進に次ぐ突進は仮設の橋をかけるなどで進撃を支えた工兵、敵の背後に回り込む舟艇機動、新型戦闘機である一式戦闘機隼が投入で来ての制空権と、マレー沖海戦に勝利した制海権確保が合わさってでもありました。

また藤原岩市少佐の特務機関F機関がイギリス軍のインド兵に投降を呼びかけたり、謀略も行っていました。
攻略作戦はコタバル上陸から70日目で終わった。十分な戦力の準備に優位を崩さない攻勢の連続、謀略も用いるなど様々な手段が効果的になったからでした。

featured image:Unknown authorUnknown author, Public domain, via Wikimedia Commons

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