連戦連勝して平家を滅ぼした義経の戦いとは単に奇襲戦法というよりは、当時の戦のやり方としてはおおよそ常軌を逸した常識破りの戦術でした。
それは頼朝率いる坂東武者にとって、全く理解不能なものでした。
義経が頼朝に受け入れられず鎌倉勢の全てから敬遠されたベースには、この不可解な軍事行動があったのかもしれません。
当時の戦は一騎打ち
「ヤアヤア、我こそはー」の名乗りから始まる、騎馬武者同士の一騎打ちが当時の戦の基本単位でした。
全体の軍勢として、例え百騎、千騎、万騎と人数が集まって合戦が行われていても、それは何百、何千もの一騎打ちの集合したものが合戦であるという感覚が当時の武士にはありました。
何故なら武士の手柄が、如何に強い敵将の首を上げるかだったからです。
味方の勝ち戦であっても、敵将の首を上げるという個人の戦功が無ければ恩賞の対象にはなりません。
従ってこの頃の武士達の合戦観は、軍勢対軍勢というよりも一騎打ちが先にあって、その集合体として合戦が行われるという感覚だったのです。
義経の軍功なし
一の谷でも屋島でも確かに義経の軍事行動が鎌倉軍を勝利に導きました。
しかしその戦勝の報告を遠くで聞く鎌倉では、義経が誰それの首を取ったなどという形の残る戦功の報告を受けていません。
これは鎌倉から派遣された将と義経との不和がその主な原因ですが、一人の武者としての戦功が皆無である義経の戦振りに鎌倉の武将連は首を傾げるばかりでした。
義経の合戦観
現代の戦争では、軍隊の師団、連隊、大中小隊など組織同士の戦闘が当たり前です。
もちろん白兵戦など接近戦などの場合は、兵同士の一騎討ちの戦闘もあり得ますが、あくまで戦闘とは組織対組織が基本です。
この戦闘観は戦国末期に信長以降少しづつ導入され始めますが、体系として取り入れられたのは明治以後です。
この考え方を、800年以上前の義経は持っていました。
だからこそ一の谷や屋島において、水軍が無いに等しい鎌倉勢が強力水軍を持つ平家勢に勝つ為には、100%敵の裏をかく奇襲戦法が必要だと判断し、義経は極少数精鋭の騎馬隊による思いも掛けぬ方角からの攻撃を敢行したのです。
一騎打ちの戦いしか頭にない通常の武者には、少数で組織された精鋭部隊による敵の本拠地攻撃で敵を敗走させるという戦術はあり得ません。
奇襲のもう一つの目的
安徳天皇を伴った平家は、天皇家の象徴である三種の神器も持ち去っていました。
後白河方法の最大の懸案はこの神器の奪還で、義経は法王からこの事を厳命されていました。
三種の神器は当然の事ながら安徳天皇と共にあり、安徳天皇は国母・建礼門院(徳子)やその母であり清盛の妻・平時子と一緒に、平家総帥・知盛の本営に居ます。
つまり義経は神器奪取の為にも、戦線奥深くにある平家本営を急襲する必要があったのです。
義経は平家を敗走させはしましたが、神器奪取には失敗し壇之浦まで持ち越す事になります。
※画像はイメージです。
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