大山守命(おおやまもりのみこと)をお祀りする七カ所の祠の物語。
各地に神社や祠は数多くありますが、どんな神様が祀られているか伝承されると思います。
私が知る七所明神はというと、祀られている神様は身体の一部だったのです。
大山守命とは
大山守命は応神天皇の皇子であり、天皇になることを辞退し東国へ逃避したと言います。
(現在、史実では反乱を起こしたが、事前に察知され船で逃亡している際、川で水死したことになっています。)
大山守命が東国で兵を集め反旗を翻す、と考えた次の天皇(仁徳天皇)とその配下(連・臣)は、東に兵を差し向け追っていきました。
一説では山形県庄内地方で戦いとなり多くの兵が死にましたが、大山守命は命からがら新庄市のとある場所(関屋という村)の倉に身を潜めましたが、敢え無く見つかり殺されました。
最後に大山守命は、「我身を都によく似た最上鮭延城近辺七カ所に祀れ」
と言い残し、追手の連・臣に斬られました。追手は、間違って、八つに斬ってしまったため、一つを川に投げ捨て、残った七つの身体である、首・胴・左手・右手・男根・左足・右足に分け、それぞれを塚に埋葬しました。
その塚からは霊が現れ、神とあがめ祀れば人民を守り諸所の願いを叶えようと話したそうです。
追手であった者たちはこのことに罪を悔い、朝廷のところへは戻らず、山形県最上郡に残ったということです。
連臣堂
新庄市の大山守命が討たれた村では、哀れみから連臣堂(連・臣から由来している)というお堂を立て祀ったそうです。
実際、あまり知られていませんし史実ともかけ離れた話ではありますが、細々と七か所巡りのツアーを街の案内人ボランティアの方がやっていたり、祠がある場所をその地域の集合場所としていたりと、何かにつけて忘れていた頃に話題となる話ではありました。連臣堂については、現在は石碑のみとなっております。
小さい頃、老人たちに話をされたが、全く理解できないものでありましたが、大人になり、古史古伝を知るようになった今、凄いニュースだったんだなと、思っています。
※画像はイメージです。
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