実は母方の祖母は明治以前に成立した、わりと歴史のある新興宗教を信仰していました。
そんな祖母の戦中の様子はどうだったのか?聞いた時の事を書きます。
子供の頃、私は祖母につれられて、その宗教の行事に付き合わされていました。
戦前、戦中と信仰していますので、戦時中についての話を聞くと話をそらされてしまいます。
知恵もついてくる高学年になると、遊びたい盛りでなのに付き合わされる事に腹をたてた事もあって、そんな中母に矛盾点を突き付けた訳です。
そもそも、その宗教は人助けや社会貢献を無償でするとか、人を説いて正しき道に進ませるのが信仰な訳です。
それでも赤紙は来るわけで、それは人殺しを肯定するような事ではないか?という話を突き付けたのでした。
私の家族ではないにしろ、知っている限りで二人程戦地で死亡していますがこれらの人たちは祖母と同じ宗教を信仰しています。
私はどういう葛藤があって赤紙に従ったのか?
祖母に聞いてもなかなか話をはぐらかされてしまったのを記憶に残っています。
祖母が言うには、どちらかと言えば、戦後に焼け野原になった東京の街で救済にあたっていたとは言っています。
自分の事だけでも精一杯の時期にそれ程の事が出来たとは、子供でも分かる事で、本当にそうだったとは思えません。
子供の頃の母が強く印象に残っているのは、生還したけれど片足を無くした元軍人が駅前で軍服を着てアコーディオンを弾いて、今でいうルンペンのような生活をしていたという話しで、それを見て祖母は何かしたのかを聞いても覚えていないと言います。
父はお尻をふく紙もないので、新聞紙でそれをしていたと言っていました。お尻が墨で真っ黒になった。でも拭かない訳に行かったと話をします。
戦後はみんなが貧乏という環境下で誰かが特別金持ちという事もなく、つぎはぎの服を着ていても皆がそうでしたし、昔はモノを大事にしたなという言葉は実は商品自体が市場にありませんでした。
そんな状況下では、祖母ができる事は無かったんじゃないかと思います。
今だから解るような気がするのですが、祖母を責めるのではなく、なにかしてあげたくても出来なかったのじゃないかと思うのです。
つまりは、どんな宗教をしていたとしても、無慈悲と言えるほど公平に戦争の不幸はやってきた・・・そんな時代だったのでしょう。
※写真はイメージです。
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