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捕虜生活は意外と自由だった??

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私の祖父は、陸軍主計大尉を務めた人でした。初めは国内にいましたが、ある日突如「支那(中国)大陸に進出せよ」との命が下ります。そしてその地で終戦を迎え捕虜となるのですが・・・

目次

祖父が軍人になるまで

祖父は地方の集落から猛勉強を重ね、東京帝国大学(現在の東京大学)経済学部に入学。在学中に婿になるかたちで結婚をしました。

卒業を間近に控えた日、当時としては憧れの職業であった軍人への道へ進むことを決意。昭和16年に陸軍経理学校の学生募集に出願しました。80名の募集のところ、何と1,000人以上が応募。
みごと合格を果たし、陸軍経理部見習士官要員として入隊しました。

軍人の道を歩み始める

祖父は2ヶ月の兵営(軍人が共同生活を送る宿舎のようなところ)での生活を経て、陸軍主計中尉に任官。陸軍経理学校に入校し、6ヶ月で戦時における軍隊の衣食住や会計経理に関する事を叩き込まれました。

この頃、妻(祖母ですね)を東京に呼び寄せ軍務に励んでいました。ほどなく陸軍経理学校を卒業し、近衛歩兵隊に配属。給養や酒保(しゅほ。軍人に日用品や嗜好品を販売する売店)の任につき、本格的に軍人の道を歩み始めました。その後は職務を実直にこなす傍ら、下士官採用試験の監督や訓練施設の設営などに従事。戦時の準備のために四方を奔走する日々でした。

中国大陸へ

実直な仕事ぶりが認められ陸軍主計大尉に昇任したある日。突如「支那(中国)大陸に進出せよ」との命が下ります。下関から連絡船で釜山を経て、天津・漢口・武昌など要地を転戦。兵舎の設営や軍人の福利厚生など、後方支援を行っていました。

後方支援が主と言っても、間近で爆撃を受け九死に一生を得たり、将兵の死も目の前にするなど、今私たちからすると想像も出来ないような壮絶な毎日を送っていました。

敗戦から捕虜へ

ほどなく日本は連合国に降伏し敗戦。永豊という町で涙を流して玉音放送を聞き、その後は揚子江(長江)の中流にある嘉魚(かぎょ)という町で捕虜(当時は俘虜・・・ふりょ、と言ったようです)生活を送ることとなりました。

捕虜収容所は意外と明るい!

捕虜生活となった祖父。しかし捕虜収容所と言っても想像していたものとは全く違う、開放感に満ちた空間でした。米は現物支給、諸経費として1人100円を支給。自分たちで自炊をしたり、現地の人と相撲をとったり体操をしたりなど、自由に身体を動かす事が出来ました。少なくとも祖父のいた捕虜収容所では、日本兵による蛮行、あるいは現地の人や連合軍による日本兵虐待などといったことは全くなかったそうです。

炊事用の薪に苦労していた時、揚子江に潮の満ち引きがあることに気づき、引き潮の時に中州まで行って柳の木を切って持ち帰るなど、捕虜収容所から外に出て活動することも当然のように認められていました。現地市民とも友好関係を築いており、復員の命が下って日本に帰国する事になった時には、お互い手をとったり抱き合って別れを惜しんだそうです。

帰国後の祖父

1年7ヶ月の時を経て、とうとう帰国。やはり感慨深いものがあったそうです。公職追放の憂き目に遭い、帰国後は独学で農業を勉強し農耕生活を余儀なくされるなど、戦時中とはまた違った苦労があったのですが、それはまたの機会に…。

ちなみに帰国後、戦時中に生まれた長女と初めて対面した際、「知らないおじさんだ」と大泣きされるというオチがありました(笑)。

※画像はイメージです。

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