有事に対する備えである軍事力を保持する自衛隊。
平時しか知らない現代の日本で、その活動はなかなか理解されていません。
カンボジア内戦
カンボジアでは1970年から、シハヌーク、ロン・ノル、ポルポト、ヘン・サムリンと次々政権が変わり、1991年に和平協定が成立するまで、内戦が断続的に勃発しました。
そして停戦後初の民主的総選挙に向けて、国連機関UNTAKのよる平和維持活動PKOに自衛隊が派遣されました。
それは初めての自衛隊海外派遣でした。
派遣されたのは道路復旧や水・食料などの補給が任務の施設部隊で、許された武器は拳銃・小銃の小火器だけでした。
武力を伴う活動が主任務ではないとはいえ、未だ各勢力が入り乱れて混乱しており、散発的に戦闘が実際に起こっている情勢下、その武装は甚だ心許ないなものでした。
指揮官の用心
ある施設中隊83人は、駐屯するキャンプから担当する道路補修現場までいくつかの村を経由して、往復5時間の行程をトラック10台で毎日行き来しました。
経路の途中には反政府勢力の支配地に近い場所もあり、いつ攻撃を受けても決して不思議ではありませんでした。
なぜなら自衛隊の施設隊であろうとも、反政府勢力にとっては政府支援の外国軍隊以外の何者でもないからです。
部隊指揮官の三佐は同地域に武装展開しているフランス軍や政府軍と、常時連絡をとって地域状況を把握し、さらにトラック車列と距離をとって先行車を走らせ、
直前の経路状況も確認させるなど、危険回避のため最大限の努力をしました。
しかし村々にいる反政府軍の情報屋の存在をフランス軍将校に教えられ、彼は慄然とします。
毎日規則正しく同じ時間に村を通過する10台もの自衛隊の車列は、絶好の攻撃対象だからです。
三佐は早速、隊の出発時間を30分から1時間ほど毎日変化させ、またトラック隊とは毎日違う経路で先行車を走らせました。
そうすることで隊の行動を予測し難くしたのです。
帰国後の三佐
この三佐は日本帰国後、任地駐屯地と官舎の通勤経路を毎日変えるようになりました。
敵の攻撃などの危険がない平和な日本では、そんな用心は全く不要なだけでなく、その行動は変人どころか精神異常の疑いさえ持たれかねません。
このように有事と平時の間には、同じ行動でもそれほど人の感じ方に差があります。
それでも三佐がこの行動を自らに課したのは、反射的に危機に対処できるように自分を鍛えるためでした。
それが有事に備える自衛官の役目だと考えたからです。
平和ボケと揶揄されるほど平時しか知らない日本にあって、有事の備えるための活動が如何に理解されないかはこの一事を見ても分かります。
しかし有事は絵空事や空想ではありません。
現実に今、世界のどこかで実際に起こっているのです。
参照:兵士に聞け 杉山隆男 著
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