輪廻転生は、自我の解釈として優れた理屈である。
世界は結局、「自分」という一人称で観測されるに過ぎず、その観点から言えば他者は環境の1つでしかない。ならば、時系列で自分の「前」や「後」を考えるのは当然である。
長大な無の中に、一瞬だけ「我」が発生したと考えるのは少々乱暴な話である。それよりは、永続的な「我」が存在して、有限な肉体を移りながら、世界を観測し続けていると考える方が余程理に適っている。
この状態に理屈を作ったのが、つまり輪廻転生である。
尚、観測というと監視者的上位存在のイメージがあるが、ここでは単に世界を知覚するものという意味である。
かまいたちの後
さて、前世占いの話である。
明石家さんまの前世がカマイタチであると占われたのは有名なエピソードだ。
カマイタチは妖怪の1種だが、その姿はイメージ図であり、河童や座敷童のように目撃例から作られたものではない。つまり、生物が元になった妖怪ではなく、現象由来の妖怪だ。自然現象を操る妖怪はエネルギーそのもの、つまり「まつろわぬ神」の一柱であると考えるべきである。
カマイタチは江戸時代の文献には記された存在である。つまり、その頃にはカマイタチは健在であったと考えられる。日本で広まっている輪廻転生思想は仏教による解釈が基本である。従って、ここでいう「神」は、三界六道における「天」のことである。解脱していない天は輪廻から逃れられない存在でいずれ死ぬが、最下位の梵衆天であっても寿命は0.5劫、つまり21億6千万年である。江戸時代から現在までの数百年は誤差どころか棄却域の範囲であり、カマイタチは現代も生きている可能性が高い。カマイタチが生きているなら、明石家さんまに転生出来る道理がない。
結局、かの前世占い師は、前世を話のタネにして助言をする「普通の」占い師に過ぎず、オカルティックなパワーを持つような者ではない。
前世が見えると何が分かるのか
さて、本当に前世を見通せるパワーを持つ存在がいた場合、前世「占い」は成立するだろうか。
まず、単純に前世が何であるか言い当てる事を「前世占い」と呼ぶならば、当然成立する。
実は関しては、パワーがなくてもかなりの精度で当てる事が出来る。生命の最大派閥が菌類であり、その多くは名前が付いていない。従って、転生先がランダムに決まる場合、「名のない菌」と言えば99%以上的中する。
完全なランダムがつまらないなら、バイアスをかけよう。
仏教においては、前世の行いが「業」となって転生先を左右する。ならば、人間として真っ当に生きていたならば、次も人間になる可能性は高い。なるほど、それならば、人間の前世が人間になる事もそれほど珍しくはない。こちらは、常人にはまず当てる事は出来ない。
だが前世を知るだけの「占い」に、一体需要があるものだろうか。
「前世が賤しい○○か」とか「俺は高貴な××だったんだ」という差別感情の根拠にしか使い道がない。
前世占いが使われるのは、ただ前世を知るだけでなく、それによって今世の運命を占うという繋がりがあるからこそである。
そして、ここに前世占いに対する疑問が生まれる。
「前世は、今世に影響を与え得るのか?」
である。
前世が分かったら何をする?
まず、仏教の輪廻の思想では、前世の行い(業)で何に生まれるかが決まる。
だが、悪い方に属する「悪趣」に分類されるのは、三界六道の「六道」のうち地獄道、餓鬼道、畜生道の三道である。
この価値観に従うなら、人間にまで辿り着けた者は、「前世で罰せられるような業を負わなかった」存在である。
仮に前々世で何があったにせよ、前世の段階で「許された」者、言ってみれば懲役が終わり、まっさらになった後の存在である。
では、まっさらになっていないなら、どうだろう。
前世の悪事による業が0.1%程度今世にも残るとしよう。
複利の恐ろしさ。500回も転生すれば業は40%分も残存してしまう人生となりる。転生を重ねるごとに収斂するのだから、結局地獄から一歩も動けなくなってしまう。リセットされない以上、転生しても逃げ道がない。
業の持ち越しと蓄積を同時に肯定するには、「個々の素養」「たまに恩赦がある」「レベルキャップがある」など、理屈を追加する必要がある。
立証が複雑化していく時は、論の間違いを疑わなければならない。人間に辿り着いた以上、スタートラインは同じ、そう考えるのが自然だろう。
従って、前世を見通すパワーの有無にかかわらず、前世は占いのネタとして使い道がないものである。
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