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昔あった日本の捕虜収容所

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日本の天皇陛下がイギリスやオランダを訪問されると、必ずと言っていいほど第二次世界大戦で日本の捕虜収容所で虐待された元捕虜の方々が取り上げられます。
何十年経っても忘れられないほど悲惨な目に遭ったことを聞くと、気の毒でいたたまれなくなります。

調べるとかなりの人数の方が捕虜収容所で亡くなり、虐待されたということで、関わった人たちは戦犯として刑罰を受けているということです。

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思わぬ歴史

しかしこれが明治時代の日清、日露戦争、第一次世界大戦の頃の捕虜収容所は、同じ日本かと思うほど待遇が良かったのです。これは1899年に日本も参加してオランダで第1回万国平和会議が開催され、捕虜、傷病者の人道的な扱いが定められたばかりだったことと、日本は国際社会に認められたくてがんばっていたというのが理由だと思います。

日露戦争では愛媛県松山市を始めとして全国29か所に捕虜収容所が設置されて、約7万2千人のロシア兵の捕虜が収容されたそうです。松山では新鮮な肉や野菜やパンという食事で労働もなく自由に外出もでき、将校には当時のお金で月3円、兵に50銭の給料も支給されたくらいです。

道後温泉入り放題で、市民との交流もできたし、祖国への手紙も自由に出せたので、厚遇されていることはロシア軍に伝わり、ロシア兵は「マツヤマ!」と叫んで投降したという話は有名です。

ロシア兵たちは宗教も尊重されていたので、ユダヤ人同士が集まってきちんとユダヤ教の祭りや何かを行うことが出来たので、後にイスラエル建国に関わったヨセフ・トルンペルドールは、日本でイスラエルに建国する行動を起こしたとされています。

ユダヤ人のケース

トルンペルドールがこの捕虜収容所での行動が明治天皇の耳に入り、陛下が興味を持って面会し、戦争で左腕を失っていたので義手を下賜したという話は違うみたいです。
これは皇后の昭憲皇太后が、敵味方関わらず手や足を失った兵に義手や義足を与えるようにポケットマネーを出したということからのようでした。

それにヨーロッパでは迫害されたユダヤ人が日本で尊重されたのがきっかけで、イスラエル建国に影響を与えたというのはちょっと言い過ぎではないかと思います。
しかしアフリカ系の方が日本では肌の色で差別されないというのと同じく、ユダヤ人の方も無宗教の日本人がキリスト教徒でないからと差別されないどころか、ユダヤ教の祭りや伝統を尊重してくれることが意外だったのは確かでしょう。

ドイツのケース

第一次世界大戦のとき、日本は日英同盟でイギリス側だったので、日本でもドイツ兵の捕虜を収容しました。
このときも、ドイツ兵は好待遇を受けて、徳島県鳴門市の板東俘虜収容所では、日本初のベートーベンの第九が演奏されたとか。
ドイツ人捕虜だったカール・ユーハイムが初めてバウムクーヘンを焼いて「ドイツ作品展示会」で披露し、その後日本に永住して出来たのが有名なケーキ店「ユーハイム」だとか、他にもハム職人、パン職人も日本に残ってドイツの食文化を日本に浸透させています。

同じ頃、先進国がみんな断ったシベリアに孤立したポーランド孤児たちを日本に連れて来て助けた話も、最近になって明らかになりました。

どっちがほんまやねん?

この太平洋戦争のときの捕虜虐待した日本人と、それ以前の捕虜や孤児を厚遇した日本人、どっちがほんまやねん?と思うのですが、司馬遼太郎氏のおっしゃったように「太平洋戦争前の日本は、日本史上どこを探してもない時代だった」つまり異常だったということでした。

21世紀に生きる日本人はどちらに共感できるかと言えば、もちろん困った人を助ける方ではないでしょうか、それを忘れないでいればもう異常な時代に返ることはないと考えたいですね。

※画像はイメージです。

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