世界最大のメガシティ・東京は、かつては泥深い湿地と雑木林が広がる武蔵野の寒村だった。この地に幕府が開かれ、巨大都市・大江戸へと変貌をとげるまで、およそ100年。
徳川264年の太平の影には、江戸の町に張りめぐらされた霊的守護があった。ベースとなったのは王都の選定や都市づくりの指標とされてきた陰陽道、言霊法、四神相応といった古代の科学だ。邪気を退け、繁栄をもたらす鬼門封じや端境(結界)はよく知られる。
江戸鎮護計画にあたって、幕府は過去に例をみないもうひとつの霊的パワーを利用したといわれる。
その霊力とは、関八州の覇者にして大いなる祟り神・平将門の怨念である。東京に鎮座する将門ゆかりの七つの霊跡を線で結ぶと、北斗七星が浮かびあがる。いうなれば、将門を戴く柄杓(ひしゃく)の結界が施されたのだ。
なぜ家康は怨霊をかしこみ、江戸の守護神にしたのか。なぜ結界は北斗七星でなければならなかったのか。
将門伝説と七つ星に秘められたミステリーを読み解く。
江戸幕府が構想した将門の封じ祀り
10世紀、平将門は「新皇」と号して関東独立国家の樹立をめざすも、玉座を狙う朝敵とみなされ、藤原秀郷ら討伐軍に討たれて壮絶な戦死をとげた。38年の短い生涯だった。
関東で敗死した将門の首は京へ送られ、市中にさらされて怨霊として覚醒する。恨み骨髄に徹したその生首は復讐を誓い、おのれの骸
を求めて、ついに東の空へ飛び去ったと伝えられる。
時代が下って慶長8年(1603)、江戸に幕府を開いた徳川家康は、江戸城の守護と都市開発にあたって将門の加護を頼みにした。
御霊を祀る神田明神を江戸の総鎮守にした背景には、坂東武者・東国覇者であった将門への畏敬の念があっただろうし、桓武天皇五世という皇胤でありながら天皇に弓引いた傑物を保護することで、朝廷を牽制する狙いもあっただろう。京の天皇家にとって、将門ほど忌むべき存在はない。かたや関東を本拠とする武家政権にとって、これほど心強い味方もない。
周知のように、将門は関東の英雄と大怨霊というふたつの顔をもつ。凶霊の霊的パワーを町づくりに取りこむなどという発想は、現代人にはない。かえって邪気を呼びこむようなものだからだ。
しかし、そこは家康である。たんに怨霊を恐れて封じるのではなく、神として篤く祀り上げることで、その怨念を神威に転じさせよう
と考えた。古来、この国には怨霊を祀って御神徳にあずかろうとする御霊信仰(ごりょうしんこう)がある。
天下普請は三代にわたる一大事業となった。着手したのは家康だが、プロジェクトには仕掛け人がいたはずだ。政権の中枢にいて、古代の科学に通じ、天下人にも発言力をもつ人物。
文献による裏づけがないため推測によるしかないが、その人物とは幕府の宗教的な柱石であった天海僧正ではないだろうか。家康を東照大権現として日光に祀ることを提言したのは彼だったし、家康、秀忠、家光の三代にわたって仕えた時期が都市開発事業と重なる。
おそらく天海は江戸市中の将門霊跡に目をつけた。そして、それらの位置を調整することで柄杓の結界を完成させた。守護神の御霊が江戸から離れないように。
この北斗七星になぞらえた霊跡の配置は将門魔法陣ともいい、妙見菩薩を表しているという。
将門と妙見のリンクという切り口で歴史を読むのもおもしろいのではないだろうか。
とんでもねえ、あたしゃ神様だよ
北の夜空に輝く不動の星・北極星は、宙の中心、天界の王になぞらえられて太古より信仰の対象となってきた。そばを回る北斗七星もまた、北極星とともに神聖視された。この北極星・北斗七星の権化が妙見菩薩であり、妙見菩薩に対する信仰を妙見信仰という。
「妙見」とは真理や正邪を見抜く眼力を意味する。天空から人を見守り、正確な方角を示し、その運命を司る。他のライターさんが妙見信仰の概要と高見を過去記事に寄せているので、詳細はそちらをご覧いただくとして、ここでは将門と妙見のつながりに焦点を絞って話をすすめていきたい。
将門は妙見信仰に篤かった。拠点とした利根川流域は妙見信仰が根づいた地域でもあった。渡来人によって日本にもちこまれた当初こそ近畿以西の信仰であったが、やがて彼らが東国に移住したことで東日本にも広まっていったのだ。
近年になって、「関東には妙見信仰に先立つ北斗七星信仰があった」という新説が提唱されて注目を集めている。埼玉県のさきたま古墳群の配置が柄杓を描いていることに着目した興味深い説だ。だとすれば、関東には妙見信仰が受け入れられやすい土壌ができあがっていたのかもしれない。
では、将門はどういう経緯で妙見菩薩を信奉するにいたったのか。
北斗七星の柄の端にあたる2等星・アルカイドは破軍星と呼ばれ、この星の守護を得ると戦に勝利するという中国の故事から、妙見菩薩が軍神として武門の信仰を集めたことがまずあげられる。
さらに、妙見が戦のさなかに将門のもとに降臨して窮地を救ったという奇談が軍記物語『源平闘諍録(げんぺいとうじょうろく)』に残されている。あらましはこうだ。
承平5年(935)、伯父・平良兼との合戦のときのこと。将門は劣勢になり、蚕飼川まで追い詰められた。向こう岸まで退きたいが、舟がなく身動きがとれない。すると、どこからか童子が現れて将門に浅瀬を教え、みずから弓を手にとって、一度に十矢を放って敵兵を蹴散らしたため、良兼軍は敗走して将門の勝ち戦となった。
将門が膝をついて「童よ、あなたは誰か」と訊ねると、童子はこう返した。
「われは妙見という。そなたは剛毅朴訥なるがゆえに助けた。上野国の花園寺より、われを迎えるがよい」
そこで将門は言われたとおりに妙見を迎え、守り本尊とした。
この上野国の花園寺こそ、群馬県高崎市の妙見寺。創建は和銅7年(714)、または霊亀元年(715)と伝えられる。「正直の頭(こうべ)に神宿る」という言葉のとおり、将門には妙見の加護があったとする逸話である。真偽はともかく、彼はそれから5年たらずで関東一円を手中におさめ、新皇と宣言するにいたる。
将門は妙見に背中を押されて乱を起こした?
将門が妙見菩薩と固く結びついていたとすれば、反乱にいたった理由も納得できる。ここで注目したいのは、妙見信仰の性格と平安時代中期の坂東の政情だ。
『妙見菩薩陀羅尼経(みょうけんぼさつだらにきょう)』という小難しい経典のなかで、妙見がさらりとおっしゃるくだりがある。
「もし世の王が正しい仏法の教えにしたがって臣下を用いず、それを恥じ入ることもなく、ただ暴虐にふけり、民を虐げるのであれば、われは王を退け、賢く才ある者を新たな王に据えよう」
妙見は、さらにたたみかける。
「ようするに、みんなを慈しむようなイケてるやつがいたら、この妙見はそいつをトップに座らせるってことですよ」
この発言を筆者のフィルターに通すと、こうなる。
「王朝交替上等。よい国にするためには社会改革も必要さ」
なんという危険思想であろうか。こんな塩梅では革命にさえつながりかねない。げんに平将門という逆臣が現れたではないか。乱は妙見に背中を押された彼なりの大勝負だったという気さえしてくる。
平安時代中期、地方の国々を治めていたのは中央から派遣された貴族だった。が、国司たちは都の目が届かないのをいいことに、民衆から搾取しては私腹を肥やすばかりだった。結果、流人や盗賊が激増し、治安はどんどん悪化する。そんな状況のなかで将門は立ち上がり、国司を次々と追放していった。
京の朝廷からすれば、妙見信仰はみずからの地位を脅かす革命思想にほかならない。朝廷が将門討伐に血道をあげたのもうなずける。
翻って、家康の結界にも革命への共感がこめられていたと思えてならないのだ。
後編では北斗七星を構成する七つの霊跡と、将門の霊威を封じるために明治政府が張った結界封じをみていく。
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