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鼻歌でラバウル小唄

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母から記憶の限りで聞いた事を書きます。

母型の祖父母はお米屋さんを営んでいました。おかげで米に関しては食糧難ではなかったようです。
佃島で育った母は、祖母に戦中の事を色々聞いたようですが祖母も口が重たかった。しかし祖母の話しを聞いていると、野球の試合でも負け戦だとか言っているのでそういう時代の人なんだと思っていました。

祖父は海軍の訓練中に終戦を迎えましたが、鼻歌でラバウル小唄をよく歌っていたようです。余談ですが父は、千葉に住んでいましたが、B29が通りすぎると遠くの空が真っ赤に染まったそうです。
今みたいに高い建物がないので、東京空襲もはっきり覚えているようで、とにかく真っ赤になったそうです。

焼野原となった東京でしたが、幸いだったのが家族は全員無事で終戦を迎えています。
祖母は召集令状が来た時、やはりショックでしたが時代の流れと、もともと祖母の家計は相撲取りでしたので勝負事が好きな気質がありました。手柄を立てるように送り出したようでした。祖母は私が当時アマチアボクシングの試合でも血圧が上がるくらいで、そういうのが好きな人なのかもしれません。

戦中の話しではないのですが、戦後門前仲町にはアコーディオン片手に片足を失いし兵士がものごいをしている姿があったそうです。
シュシューボーイ(靴磨き)はいましたし、母は進駐軍からガムを貰ったと記憶にあるそうです。

■ 傷痍軍人(1948年12月)
See page for author [Public domain], via Wikimedia Commons

母は幸い疎開していたので、戦後日本が米国に支配されている印象が強かったのかもしれません。
しかしはっきり覚えているのは、祖父は赤紙を見るとやはり目を背けるのです。そうとう予科練がつらかったらしく、毎日虐められていたようです。
ばった棒ですね。

事実戦況苦しくなると毎日そういう環境だったようで、平和の時代でよかったと思います。

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