第二次世界大戦でエバン・エマール要塞やクレタ島の攻略戦で緑の悪魔と恐れられたドイツ軍の降下猟兵
その降下猟兵の名指揮官と称えられるヘルマン・ラムケを紹介します。
ラムケの前半生
ヘルマン・ラムケ1889年に現在のドイツ北部にあるシュレースヴィヒで農家の息子として生まれる。
1905年にドイツ帝国海軍に入隊して巡洋艦に乗る水兵になったものの第一次世界大戦では海軍の陸上部隊へ異動となり西部戦線を歩兵として戦い第二級と第一級の鉄十字章にプロイセン金十字章を与えられる。
戦後は陸軍に移り歩兵大隊長・訓練教官を務め第二次世界大戦勃発後には51歳でパラシュート降下の訓練を受け1940年8月から空軍の降下猟兵連隊の参謀となりました。
北アフリカのラムケ旅団
1941年5月のクレタ島の空挺作戦にも第1降下猟兵連隊長として参加したラムケ大佐は少将になり1942年4月に第1降下猟兵旅団の旅団長に就任した。
旅団の名前はラムケを迎えた事でラムケ降下猟兵旅団に改称されます。
この旅団はイタリア軍と共に地中海のイギリス軍基地となっていたマルタ島への侵攻作戦に参加予定でしたが中止になり北アフリカ戦線へ投入される事になりました。
旅団はイギリス軍の大反撃であるエルアラメインの戦いで防戦をしますがドイツ軍はエルアラメインから撤退する事になります。
旅団は徒歩で撤退した為にロンメル将軍は旅団が全滅したと諦めていた。
だが旅団はイギリス軍の補給物資と車輌を奪い友軍との合流を果たした。この豪胆さはラムケ親父と慕われたラムケ少将の存在と指揮があったからだ。
旅団はその後ラムケが欧州へ異動となって北アフリカ戦線の最後である1943年5月の降伏まで戦います。
ラムケ東部戦線へ
北アフリカから異動となったラムケは独ソ戦の東部戦線で戦います。
1943年2月にラムケは第2降下猟兵師団の師団長となります。この師団はイタリアに展開した後に東部戦線へ移動となります。
師団は秋からドニエプル川やキエフの西方でソ連軍と死闘を繰り広げます。
輸送機で移動する軽装備部隊である降下猟兵師団は重火器が少なく砲兵は軽無反動砲と言う小さな砲を使っていた。
戦車を押し立てて攻めるソ連軍に装備が不足していても降下猟兵は必死に戦いソ連軍の猛攻に耐えます。
しかし1944年春には損耗の為に師団はドイツ本土からフランスへ移動し再編成に移ります。
フランスで最期の戦い
1944年6月6日に連合国軍はフランス北部のノルマンディーへ上陸します。
第2降下猟兵師団はUボート基地があるブレストの守備に就き中将であるラムケはブレストにあるドイツ軍を総指揮する守備隊長を務めた。
合わせて4万の戦力で8月7日からアメリカ軍の侵攻に立ち向かった。
だが包囲されたブレスト守備隊は1カ月以上の攻防戦の末に弾薬が尽きラムケは降伏した。
海軍から陸軍・空軍を渡り歩いたラムケは弾尽きるまで戦い抜いたのだった。
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