逝そこなった帝国海軍軍人の心残り

私が中学校時代から海軍兵学校に入った叔父から、自分は戦争で死に損なったと聞かされていました。

海軍兵学校のエリートだと自慢していた叔父は、厳しい訓練に耐えて戦地に行くはずだったのに「死に損ない」になってしまい、悔しかったそうです。

叔父のプライドの高さは大変な物で、昔の兵隊さんは・・・等と言おうものなら、「兵隊じゃない!軍人だ!」と怒られたものです。
兵学校の生徒だったのなら兵隊だろうと言いたかったのですが、それは禁句だったのです。

戦争が終わって何十年も経っているのに、何とアナクロな人だと子供ながらに思ったものでしたが、叔父にとってはまだ太平洋戦争は終わっていなかったようです。しかも叔父には子供がいなかったので、よく遊びに連れて行かれたものですが、映画鑑賞と言えば戦争映画ばかりで、「トラトラトラ」という真珠湾攻撃の映画は、何回も見せられた気がします。

叔父の兵学校時代の話では、寮生活は厳しいもので夜は消灯時間になると全員、両手を布団から出して寝るように命令されていたそうです。それは自慰行為すら許されなかったからだそうで、「そんな力があるなら国の為に使え!」という意味だったそうです。
まして男色なんて、もっての他だったそうです。

終戦間際には食べ物もなく、薄いみそ汁に虫が浮いていると文句を言った生徒が、教官に「馬鹿者!黙って全部飲め!」と殴られたそうです。
戦後になって知った事だと言っていましたが、戦局の厳しい中でも海軍将校たちはローストビーフも食べていたと聞かされ憤慨したそうです。ローストビーフの恨みなのか、叔父は亡くなるまでステーキ等の肉が大好きでした。

そんな叔父は、後2ケ月、終戦が遅れていたら回天という人間魚雷か震洋というベニヤ板で作ったモーターボートで特攻に行く筈だったそうです。それまでは呉の兵学校の上空を飛ぶアメリカの爆撃機、B29に向けて届く筈のない竹やりを投げて、うさを晴らしていたそうです。

天皇を戴く神国日本が負ける筈がないと、少年時代から信じ込んで勉強して難関の兵学校に合格したのに終戦になり全てが虚しかったと・・・想像するに余りある挫折だったでしょう。

そんな叔父も戦争中は「鬼畜米英を叩きのめすのだ」と息まいていたそうですが、ころっと主義主張を変えたのか、アメリカの外資系、石油会社に就職し30年も働きました。

しかしそれでも兵学校時代が忘れられず、同期と毎年宴会をやり、海上自衛隊の護衛艦に見学乗船したり、先輩たちが今なお海底に沈んでいるであろう、フィリピンやパラオへの慰霊の旅に行き、76歳で亡くなります。

よく自衛隊の護衛艦は、帝国海軍の海防艦くらいの大きさしかないと嘆いていました。叔父にとっては戦艦大和や武蔵のような巨艦が、いつまでも頭から離れなかったのでしょう。


Writing by レオ
私は戦後生まれの60歳台の人間ですが、生前の祖父や祖母、叔父、両親ともに戦争を生き抜いた話をよく聞かされました。

もう一つのお話ですが、祖父は戦前に商社の仕事で渡米しておりました。戦争が始まりそうになると、祖母と母と叔母を日本に帰して離れ離れになります。そして祖父は戦争終結までカルフォルニアの日本人の強制収容所に入れらていました。

祖母と母と叔母は敵国にいたという事で憲兵から厳しい目で見られていたそうですが、母と叔母とも18歳と16歳の女の子なのに英語が判るからという理由で、海軍に徴用され米軍の無線傍受の仕事をやらされたそうです。

※写真はイメージです。

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