母親に祖父の話を書きます。
目次
返されるというケース
我が家の母方は、戦争では以外に悲惨な状況ではありませんでした。母も幼かったせいかあまり祖母の話しを全部聞いたわけではありませんが、一応祖父も帝国海軍に取集されたようです。しかしどうも暫くして帰ってきてしまったようです。
祖父は結構体が弱かったようで、軍の方がこれでは戦に耐えられないと判断した結果、赤紙は来たのですが俗に海士を目指す教育の段階で見切りをつけられたようでした。
言い方は悪いですが、ある意味助かったケースだと思います。
仕事は何をしていた
祖父はお米屋を経営していました。ここが結構運がよかったところですね。
一応お米屋でしたので、米に困る事はありませんでした。当時米は配給制でしたが、米屋だけに配給以上の米は供給できた筈です。そういう意味で主食には困らなかったようです。
かなりここら辺は我が家は幸いしたのではないでしょうか。
佃島というところにいましたが、疎開もできましたし、家族の一人も犠牲者がおらず戦火を切り抜けたというのは幸いでした。
食糧難には変わりない
戦中戦後とそれでも食糧難には変わりありません。米以外の配給はわずかなもので、砂糖も配給で貴重でした。
配給されると子供にお砂糖で祖母がお菓子を作ってくれたと記憶があるようで、暫くして戦争も終わって、戦後母は進駐軍にお菓子も貰ったと言っています。
しかし目立ったのは、門前仲町の駅にはアコーディオンを肩にかけ片足を失った、敗残兵の姿が目に焼き付いているようでした。子供だったからか、戦争に敗北したという事があまり母には映らないのでしょうが、祖父も祖母もあまり戦争中の事は語りたくないようでした。
祖母はそういう環境からか、食べ物を粗末にするのが一番厳しかったように思います。
※画像はイメージです。
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