祖父は戦前に大手商社のアメリカ駐在員で、太平洋戦争に家族で巻き込まれてしまいます。
祖母は日本に帰国したら、アメリカ帰りの日本人として、敵国人と同じように扱われた苦い経験をしばしば語ってくれました。
祖父の一家は日中戦争が始まってからすぐに渡米し、1941年の日米開戦の前に祖母と母は日本に帰国しますが、祖父は仕事の都合で開戦のギリギリまでアメリカにとどまる事になるのでした。いよいよ開戦となると家族が別れ別れになり、母はハワイの港で祖父との別れの時に鳴らされた、客船のサイレンの音が悲しく聞こえたと・・・昨日のことのように覚えていると言っています。
そして開戦の後、祖父はカルフォルニアの強制収容所に捕らわれる運命です。
それまでのアメリカ、ニューヨークでの生活は日本とは比較にならないほど快適で、周辺も含めてみんな、戸建ての家に住み、自家用車や大きな冷蔵庫があり、トイレは水洗式。母は小学校に行くと、先生に日本からのお客様ですと歓迎されて、黒人やヒスパニックの子供に比べて優遇され、和服姿を着た絵を描いたら褒められ、誕生日にはホームパーテイーに呼ばれ、夢のような楽しい生活だったと話してくれました。
それが日本に帰ってきたら、トイレは汲み取り式で下水も整備されていなく、街がどぶのような臭いがしたとそうです。
帰国した母は女学校に入るのですが、戦時下のせいなのか入学試験は筆記試験がなく、口頭試問で教育勅語を暗唱させるのが試験で、学力テストとは全く違い、入学の基準をなにで判断するのか疑問に思うのでした。
そして入学した女学校のミシンで裁縫をする授業では、アメリカでは現在のようなモーター式のミシンなのに、当時の日本の足踏み式なので使えず先生に笑われたそうです。それとアメリカでは子供でもパーマをかけていたのに、日本では禁止だったのもカルチャ―ショックでした。子供ながらに、これで日本がアメリカと戦争して勝てるつもりのか?と思ったようです。
特に私の母は幼い頃から英語の発音に慣れていたので、日本語の発音が悪く旨くしゃべれず、駅で切符を買うのに品川と言うのに「SHINAGAU」になってしまい、駅員に変な顔をされて形見の狭い思いをしたそうです。
そしていよいよ戦況がきびしくなると、祖母は五人組といって隣の家同志空襲に備え、消防活動やら出征兵士の壮行会やらの協力を求められ、拒否もできずに駆り出されます。すると昨日まで大人しかった商店の親父が偉そうに、竹槍を持った主婦を横一列に並べて、敬礼、頭右、左、と命令するのが可笑しかったと言うか滑稽で、これでアメリカに勝てるのかとぼそっと口を滑らせてしまい、貴様は非国民だと怒られたと言っていました。
そして益々、戦況が厳しくなると敵性語の英語が話せた祖母と母は女子なのに海軍に徴用されます。
横須賀の軍港につれていかれ軍艦を見せられて乗るのかと思ったら、今の東村山市にあった海軍司令部大和田通信隊に連れていかれて、米軍の無線傍受やモールス信号や暗号の解読をさせれました。
そこで祖母は機転をきかして英文で多用される「O」すなわち、オーという文字を頼りに解読を試みたのですが判りません。鬼畜米英育ちの叔母を非国民だといわんばかりに自分に命令していた、海軍少尉も解読できなかったのに悔しかったと話しています。
そうして終戦を迎えて通信隊の解散式の時に、祖母達は毎日、麦飯とわずかばかりの大根が入った味の薄いみそ汁をすすっていたのに、海軍将校たちは信じられないことに、ローストビーフを食べてビールを飲んでいたのを目撃したのがショックだったそうです。
ローストビーフ、叔母たちはアメリカでは食べていましたが、帰国しもう何年も食べていなかったそうで、その後、母はクリスマスになるとはソールフードともいえる、ローストビーフを焼いて御馳走してくれました。まさに恨みのローストビーフだったのです。
余談ですが、送別会の日に海軍少尉がビール瓶で自分の頭を叩いて血を流し、ピストル自殺したそうです。ローストビーフのたたりかも知れません。
終戦後、母は海外生活を目指して、在日アメリカ外資系の企業で働き、アメリカのMLBのカーディナルスが日本に招聘されたときには、今度は諜報活動ではなく通訳を務めて、ささやかながら日米の架け橋となって働きました。
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五人組というのは隣組の間違いでしょうか?