皇帝ネロとは、古代ヨーロッパを支配したローマ帝国の第5代皇帝となった人物です。ネロの名前を聞いたことがある方の多くは、彼のことを「世界で最も有名な暴君」として認識しているのではないでしょうか?
悪名高い暴君として名を馳せている皇帝ネロは、容赦のない政敵の殺害やキリスト教徒の大迫害など、多くの冷酷で残虐な行為を行ったとされています。しかし、少し見方を変えると、彼は暴君ではなかったのではないかと考えることができます。
そこで、今回は皇帝ネロの人生や実績などのエピソードを紹介しつつ、彼が本当に暴君であったのかについて詳しく考察していきます。
ネロの人生
まずは皇帝ネロの半生と本性について考察します。
ネロの誕生
紀元後37年、ネロはローマ帝国第3代皇帝カリグラの妹である小アグリッピナと、ローマ皇族と親戚関係にあるグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスの息子として生まれました。
しかし、幼少期よりネロは過酷な環境に晒されることになります。ネロが3歳の頃、父であるグナエウスが死去してしまい、続いて母である小アグリッピナが皇帝カリグラによってローマから追放されてしまったのです。この時、父グナエウスの遺産は皇帝カリグラによって没収されてしまっており、ネロは両親の下を離れて叔母のドミティアと共に暮らすことになりました。
その数年後、皇帝カリグラは自身の側近たちの手により暗殺されてします。カリグラはローマ市民たちからの支持は厚かったものの、強権的な独裁者として周囲に多くの敵を作ってしまっていたのです。これに伴い、第4代皇帝として皇族のクラウディウスが即位したことで、ネロの母である小アグリッピナはローマへ戻ることを許され、無事に帰還することができました。
ローマへの帰還後、小アグリッピナはクラウディウス帝と結婚して正式なローマ皇妃となり、ネロは皇帝の養子となります。しかし、この裏には内なる野心を抱えていた小アグリッピナによる大きな陰謀があったのです。
小アグリッピナはネロをローマ皇帝に即位させるべく、哲学者セネカや近衛長官ブッルスなどの優秀な人物を側近として雇用し、ネロに高度な教育を与えていきます。さらに、ネロをクラウディウス帝の実の娘であるオクタヴィアと結婚させました。この時、小アグリッピナはあくどい計略をめぐらせ、皇帝クラウディウスの実子である次期皇帝候補のブリタンニクスが社会的に孤立するよう仕向けていたようです。
第5代ローマ皇帝ネロ
紀元後54年、クラウディウス帝が死去したことにより、ついにネロは第5代ローマ皇帝となりました。一説によると、クラウディウス帝の死因も小アグリッピナによる陰謀であったと言われています。この頃より、世間では暴君と名高い皇帝ネロの治世が始まりましたが、当初は有能な側近たちの補佐もあり、穏健な時代が続きます。
しかし、即位から数年後には小アグリッピナによる政治への過干渉が目立ち始め、ネロ親子の関係は徐々に悪化していきました。その結果、紀元後59年にネロ帝は小アグリッピナを殺害してしまいます。この事件のすぐ後に側近のブッルスが死去し、哲学者セネカも政界から引退してしまいました。
このような経緯で、ネロ帝に対する影響力を持った人物が次々と彼の元からいなくなり、彼の政治に対して意見を投げられる立場の人間がいなくなってしまったのです。
暴君ネロ帝の本性
この頃より、暴君としての片鱗を見せ始めたネロ帝は、ローマ王政の諮問機関である元老院議員の中で皇帝に反発する意見を持つ者らを次々と処刑していきました。さらに、彼は妻オクタヴィアと離婚し、その上で彼女に不倫の罪を被せて自殺に追い込みます。その後、紀元後65年には師であるセネカにも自殺を命じました。
また、紀元後64年には“ローマ大火”と呼ばれる大火災が発生し、鎮火までに1週間を要するローマ史上最大級の大惨事となりました。実は、この火災の原因は現在も分かっていません。しかし、ローマ市民たちの間では新しく町を作り替える目的でネロ帝が意図的に火災を起こしたのではないかという噂が流れてしまいます。この噂の発生源は、民衆の間でネロ帝の人気が失墜していた証なのか、政敵が流したデマなのか、今となっては確かめようがありません。
そして、この噂をきっかけに、ネロ帝によるキリスト教徒の大迫害が始まります。ローマ大火の風評被害を揉み消すために、ネロ帝は大火災の犯人をキリスト教徒であると決めつけ、反ローマと放火の罪で彼らを次々と処刑していきました。この処刑から始まる一連の大迫害によって、イエスの最初の弟子であり、初代ローマ教皇であるとされるペトロが殉教しています。
このような政治を行っていった結果、紀元後68年には属州総督らによる反乱が勃発してしまいます。この時は、ローマ政府は反乱を鎮圧することに成功しましたが、既にネロ帝は市民からの支持を得られなくなっていました。そして、最終的にネロ帝は対立する元老院議員によって国家の敵として認定されてしまったのです。
その後、ネロ帝はローマからの逃亡の末に、自らの剣で喉を裂き、自殺してしまいました。偶然にも、ネロ帝が自殺した日は、彼が妻オクタヴィアを自殺させた日のちょうど6年後の同日でした。このようにして、暴君ネロ帝は30歳の若さでこの世を去ったのです。
ネロの実績
皇帝ネロの実績を考察します。
黄金宮殿の建設
ネロ帝の実績として、ドムス・アウレアと呼ばれる黄金宮殿を建設したことが挙げられます。この宮殿は帝政ローマ時代初期を代表する巨大宮殿であり、紀元後64年のローマ大火の後に建造されました。
宮殿内には大理石やモザイクなどが使用されており、贅沢な建築となっていましたが、ネロ帝の死後に宮殿は火災に遭ってしまい、大部分が焼失してしまいました。そのため、現在では残った一部分しか見ることができません。
しかし、時代を先取りした建築技術は後世のローマ建築やルネサンス時代の文化に大きな影響を与えたため、彼にとって1番の文化的な功績と言えるでしょう。
ネロ祭の創設
実は、皇帝としては珍しく、ネロ帝は芸術に愛を注ぐ一面を持っていました。彼は芸や歌が大好きで、定期的にコンサートを開催していたようです。さらに、彼の芸術に対する愛は止まらず、ギリシアのオリンピア祭に対抗して音楽や体育、戦車などの部門で争うネロ祭を創設します。
当然のことながら、ネロ祭にはネロ帝自身も参加していました。しかし、運営側としてはネロ帝を勝利させないわけにもいかず、結果的に出来レースとなってしまっていたようです。
そのため、ネロ祭の創設は文化的な盛り上がりは見せたものの、後にネロ帝が民衆から批判を受ける原因の1つとなってしまいました。
ネロは暴君ではなかった?
ここまで見たように、ネロ帝は政敵だけでなく身内や側近、キリスト教徒など多くの人を処刑や自殺に追い込み、世界史に名を刻むほどの暴君として有名となりました。しかし、見方によっては彼は真の暴君ではないと考えることもできます。
まず、政敵や側近などを殺害することは、自身の権力を確立する過程の話であり、ネロ帝が誰よりも横暴で理不尽な行いをしていたと言い切ることはできません。もちろん暴力はないに越したことはありませんが、一連の行為は権力闘争の手段として、当時としてはおかしな話ではないのです。
また、彼がキリスト教徒の大迫害を行った人物として悪評が流れていることに関しては、後世のヨーロッパがキリスト教を中心とする歴史観にあったことが原因の1つなのではないかと考えられます。当時、ローマ帝国内では伝統的な多神教を信仰する風習が残っており、国内ではキリスト教徒は嫌悪の対象だったようです。つまり、ネロ帝自身が特別にキリスト教徒を嫌悪していたのではなく、キリスト教徒を利用して民衆の不満を逸らそうとしただけであると考えることができます。
そのため、ネロ帝はキリスト教徒の大迫害を行った最悪の皇帝であるという評価は偏った視点であるといえるでしょう。ネロ帝が暴君とされる理由は、後のヨーロッパ世界には彼を暴君と決めつけたかった政治家や歴史家、キリスト教関係者の影響が非常に大きかったからかもしれません。
まとめ
今回はローマ帝国第5代皇帝ネロが本当に暴君だったのかについて、彼の人生や実績を振り返ると共に考察しました。
ネロ帝が暴君とされる理由については、彼を評価する立場にある歴史家や権力者の影響が強く関わっていると思われます。もちろん、歴史の中に埋もれてしまった事実も多くあると考えられるため、実際に恐ろしい暴君だった可能性もあります。
歴史には、未だにわかっていないことだけでなく、既に消失してしまったものも多くあります。しかし、その分だけ歴史の闇に埋もれた真実を考察する楽しみは大海原のごとく広がっているのです。
featured image:Gordon JohnsonによるPixabayからの画像
※画像はイメージです。
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