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日本にある意味で悪影響を及ぼした、二人のルーズベルト大統領?!

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2023年の現在、大多数の日本人にとってアメリカの大統領のルーズベルトと言えば、太平洋戦争時に対日開戦を主導し、後にはヨーロッパにおいて対独参戦にも踏み切った歴史上の人物と答えるのではないだろうか。
もっと中学校や高校の世界史の授業を思い起こして見れば、第二次世界大戦前後のアメリカの経済を支える為に、ニューディール政策と呼ばれた公共投資を積極的に行った事が頭を過るかも知れない。
これはアメリカで第32代めの大統領を務めたフランクリン・デラノ・ルーズベルトの事であり、第二次世界大戦という未曽有の国難に際し、アメリカ政治史の中でこれまでも唯一の4選を経た稀有な存在である。

しかしアメリカではそれより以前の第26代の大統領を務めたセオドア・ルーズベルトと言う人物もおり、二人は遠縁の親類にあたり、彼の方は日露戦争で日本を婉曲に支援したアメリカ大統領でもある。
今回はそんなフランクリンとセオドアと言う、二人のルーズベルト大統領と日本の関係について、ピンポイントでの逸話を紹介していきたいと思う。

目次

若くして世に認められたセオドア・ルーベルト

1858年に富裕な名家に生を受けたセオドア・ルーベルトは、1890年には名門・ハーバード大学を卒業、その翌年の1891年にニューヨーク州の下院議員に史上最年少で選ばれ、世に名を知られるようになる。その翌年の1892年にセオドア・ルーベルトは「ザ・ネイバル・ウォー・オブ・1812」と言う歴史書を出版し、学者としても評価を得るが2年後の1894年に母親と妻を同日に失う不幸に見舞われた。

その後海軍、そして陸軍に籍を置いたセオドア・ルーベルトは米西戦争にも従軍し、1899年にニューヨーク州知事に当選すると、更に2年後の1891年にはアメリカの副大統領の地位を得る事になった。そして同年、大統領を務めていたウィリアム・マッキンレーが暗殺されると言う事態が生じた事で、副大統領であったセオドア・ルーベルトは当時アメリカ史上最年少の42歳にして第26代の大統領にスライドする。

この当時のセオドア・ルーベルトは共和党員であり、後には離脱し進歩党を立ち上げたが、アメリカ政治史の中では保守派側でありつつ、独禁法の制定など市場経済への規制を強化する政策を行ってもいる。
因みに今でも世界中で人気を集めている熊のぬいぐるみのテディベアは、アメリカの大統領となったセオドア・ルーベルの愛称であるテディに因んだものとして一部はよく知られている。

セオドア・ルーズベルト
unknown photograph, Public domain, via Wikimedia Commons

セオドア・ルーベルトと日露戦争

セオドア・ルーベルトは1901年から1909年にかけての8年間の期間に渡ってアメリカ大統領の地位を務めたが、日本との関係で言えば1905年に日露戦争の終結に向けた仲介をした事でも世界的に注目を集めた。

ここでセオドア・ルーベルトは日露戦争停戦の仲介から始まり、アメリカ本土のニューハンプシャー州のポーツマス海軍造船所を日露両国の講和会議の場所として提供し、ポーツマス条約の締結を支援している。日本にとっての日露戦争は旅順要塞攻略戦、日本海海戦、奉天開戦等の戦闘で戦術的な勝利を収めてはいたが、元々の国力で勝るロシアと長期戦は厳しかったとの見方から、セオドア・ルーベルトの仲介を評価する向きが多い。

セオドア・ルーベルト自身も日本の柔道を嗜み、また忠臣蔵や新渡戸稲造の著作である武士道を愛読書としており、その意味でも親日家と評されていたが日露戦争後には日本を警戒する方針に転換したとも言われている。これはロシアが満州地域を支配する状況は好ましくないと、当初セオドア・ルーベルトは指向していたものの、実際に日本が日露戦争に勝利を収めた後には、アメリカの植民地であったフィリピンへの圧力を認識した為と考えられる。

その為セオドア・ルーベルトの日露両国に対する姿勢は、日露戦争中はロシアの膨張を懸念し日本寄りの政策を示していたが、戦後には日本を譲歩させロシア寄りの講和条約締結に舵を切ったと解釈されている。しかし日露戦争における日本海海戦で勝利への献策を行った参謀の秋山真之が師事した、海軍戦略家として世界的に著名なアルフレッド・マハンに宛てたセオドア・ルーベルトの書簡の内容はまた別の面を見せている。

そこでは1897年の時点で既にセオドア・ルーベルトは未だアメリカの併合を受ける前のハワイに言及し、日本が太平洋への進出を強める前にそこに新型戦艦を多数送って手中にすべきであると説いていた。実際にハワイはその翌年の1898年にアメリカに併合されてしまい、これはセオドア・ルーベルトが大統領に就任する前の出来事とは言え、当然のように国益としての支配地の拡大を前提としていた姿勢が窺える。

もう一人のルーベルト大統領たるフランクリン・デラノ・ルーズベルト

現在の日本人としてはなじみの深いルーベルト大統領として、フランクリン・デラノ・ルーズベルトは1933年から1945年の12年間、これまでのアメリカ政治史上で唯一の4選を果たした人物である。
フランクリン・デラノ・ルーベルトは、人類史でも最大の規模となった第二次世界大戦時において、アメリカのみならず連合国を勝利に導いた指導力が高く評価され、アメリカでも有数の大統領として記憶されている。

セオドア・ルーベルトが保守派の共和党に所属していた事に対して、遠縁にあたるフランクリン・デラノ・ルーベルトは民主党の所属であり、一族で全く異なる政治的な支持基盤の元で大統領になっている。但しこうした政治基盤に違いはあれど、フランクリン・デラノ・ルーズベルトもまた富裕な家庭に1882年に生まれ、1904年にやはり名門のハーバード大学、1908年にはコロンビア大学を卒業したエリートである。

フランクリン・デラノ・ルーズベルトが政治家としてのキャリアを歩み始めたのは1910年の州議会選挙へ当選してからで、3年後の1913年にはウッドロウ・ウィルソン政権の海軍次官のポストを得る。そして1920年にフランクリン・デラノ・ルーズベルトは民主党の副大統領候補に推されるも、共和党のウォレン・ハーディングが大統領選を制した為、一時的に下野してニューヨークで弁護士を務めた。
その後にフランクリン・デラノ・ルーズベルトはニューヨーク州知事を経て、1932年には民主党代表の地位を得て大統領選に勝利、翌1933年から大統領を務め、実に12年に及ぶ長期政権を担う事となった。

フランクリン・ルーズベルト
Margaret Suckley, Public domain, via Wikimedia Commons

フランクリン・デラノ・ルーズベルトの黒歴史

フランクリン・デラノ・ルーベルトが戦時のアメリカを強力なリーダーシップに元で団結させ、第二次世界大戦の連合国対枢軸国と言う構図の中で、アメリカそして連合国を勝利に導いた事実は揺るぎない。その為ここからはそうしたフランクリン・ルーベルトの表の顔だけでなく、今日的には明らかな人種差別主義思想と見られる言動や、そうした点を憎んだ日本側の行動を黒歴史として触れていきたいと思う。

フランクリン・デラノ・ルーベルトは、世界的にも著名なスミソニアン博物館の初代館長を務めたチェコ出身の人類学者であるアレス・ハルドリチカの唱えた悪意と偏見に満ちた主張を信奉していたとされている。
この主張とはアレス・ハルドリチカの「日本人の頭蓋骨の発達は白人種よりも約2000年程遅れている」と言うトンデモ説であり、フランクリン・デラノ・ルーベルトが優性思想に基づく人種差別に傾倒していた事が窺える。

フランクリン・デラノ・ルーベルトはこうした前提の元に白人種と有色人種を捉えていた模様で、人種間の交配を進める事で文明を進化させる事が出来るとオフレコで駐米のイギリス外交官に述べたとされている。逆に敵であるアメリカ、ひいては連合国のトップでもあったフランクリン・デラノ・ルーベルトに対し、日本では1945年1月から僧侶を集めて大元帥法という行事を執り行い、これは彼を呪詛する祈祷だった。

これが実際に効果を発揮したのか否かは定かではないが、同年4月12日にフランクリン・デラノ・ルーベルトは脳卒中で急死しており、朝日新聞等の日本の報道では神罰が下ったとの表記も行われている。

二人のルーベルト大統領に思う事

日本人からして見ればセオドア・ルーベルト、フランクリン・デラノ・ルーベルトと言う二人のルーベルト大統領は、日本が新興国として勢力圏を築こうとする時代にあって立ちふさがった存在に感じられる。
結果論かも知れないが、殊にフランクリン・デラノ・ルーベルトは日本やドイツと言った枢軸国に勝利を収める為、本来アメリアの経済体制とは相容れない筈の共産主義の旧ソ連と手を結ぶなど禍根が目に付く。

それは大きな観点で見れば、2023年2月の時点でも激戦が続くロシア・ウクライナ戦争の遠因にも繋がっているように個人的には感じられ、一言では語りつくせない複雑な思いが去来してしまう。

※アイキャッチはイメージです。

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