日本の近代史における重大な転換点に、ロシアが関係しています。
露寇事件
江戸時代、祖法とされた鎖国を打ち破る大事件といえば、1852年の米国のペリー提督率いる黒船来航ばかりが喧伝されています。この黒船来航により開国と攘夷、佐幕と勤王を旗印とした幕末騒乱が始まったと、ほとんどの人が理解しているようです。
しかし実はこれより40数年も前に、開国と通商をめぐる日本とロシアの紛争がすでに勃発していました。
日露間の正式な通商を求めて1792年と1804年に、ロシア船が日本に来航しましたが、幕府は言を左右にした挙句にそれを拒否しました。礼を失する幕府の対応もあって業を煮やしたロシアは、当時日本領土だった樺太や択捉島などを襲撃し、放火略奪を繰り返しました。これを露寇事件といいます。
幕府は東北諸藩に防衛を命じますが、ロシア軍との軍事力の差を目の当たりにしました。
国防とそのための軍備増強、そして世界情勢把握の重要性を、幕府は痛感することになります。
幕府は対外政策として、当初1825年の「異国船打ち払い令」など鎖国政策の堅持増強を目指しますが、外国船の来航やそれら外国船とのトラブル増加に対処するうちに、国外情勢の正確な現状把握が進み、1842年にこれを停止しました。
つまり対外国に関する幕府の問題意識は、ペリー来航までに既に醸成されつつあり、その出発点は露寇事件だったのです。長年強固に施錠され、酷く錆びついて開かれることのなかった近代への扉をノックして、近代への意識を日本人に呼び起こさせたのがロシアでした。
日露戦争
明治維新後、外国への門戸開放で西洋文化技術を積極的に取り入れ、それによって国力を増進して西洋諸外国に対抗しようとした日本は、欧米列強国と肩を並べることが国家目標でした。
奇跡的な成長を遂げた日本の前に立ち塞がったのは、不凍港を求めて南下政策を推し進める超大国ロシアでした。
中国大陸に勢力を浸透させ、朝鮮半島への進出さえ目論見始めたロシアに、日本は危機感を募らせます。そして日露戦争が勃発します。
当時の日露両国の国力は、例えば国家歳入では日本2億9千万円・ロシア20億8千万円で、常備兵力ではそれぞれ20万人・300万人、軍艦総排水量23万トン・60万トンとなっており、常識的には日本が勝てる戦争ではありませんでした。
しかし世界の大方の予想に反して、極東の小国が欧州の大国に勝利してしまいました。
欧米諸国は驚嘆すると同時に、この黄色人種の国に一抹の不安感を抱きました。
そしてその不安感は時と共に現実味を帯びていきます。中国大陸のロシア勢力に取って代わる様に、日本は中国を侵食し始めます。
中国に権益を持ちアジア各国を植民地とする、英米など欧米諸国の不安は、徐々に脅威へと変化していきました。
その構図は以後益々明確になり、やがて太平洋戦争へと繋がります。
欧米諸国の圧力に戦々恐々としていた弱小国から、それら列強国が危険視するほどの国家へと日本が変貌した、その転換点にはやはりロシアがいました。
ウクライナ戦争
2022年冬、ロシアがウクライナ全土を支配下に置くため、本格侵攻を始めました。
米国を中心とするNATO加盟諸国は即応態勢を敷くも、ウクライナがNATO非加盟であり、またロシアとの全面戦争を回避するために、対ロ経済制裁やウクライナへの軍事援助でロシアに対抗しています。
この戦争に対し直接的な介入をしないという米国の姿勢は、日米安保条約で自国が守られている、と考えていた日本に強いショックを与えました。それはもし尖閣をめぐる中国との武力紛争が起こった時、米国は本当に自衛隊と共に戦うのかという疑問でした。
安保条約の有無という違いはあるものの、米国自体に大きな被害(例えば核攻撃)が及ぶ可能性がある場合には、米国は軍事援助しか行わず、ウクライナ同様に自衛隊独力で中国軍相手に戦うことになるのではないか?という懸念が出てきたのです。
そして今
そんな中、日本のさる世論調査で、防衛力強化賛成が60~70%という結果が出ました。
戦後70年余り、強烈な対軍事アレルギーから、軍備増強どころか正常な整備さえままならなかった日本で、これは画期的な大変化だといえます。
国民、国土、国家の防衛に対する日本国民の意識は、これからどの方向に向かうのでしょうか?
将来、日本の歴史を振り返った時、今が日本の大きな転換点とされるかもしれません。
そしてそこにはロシアが係わっていたことになります。
思った事を何でも!ネガティブOK!