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稀代の食人鬼~佐川一政は本物のカニバリストなのか?

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例えば満員電車の中、ちょっとコンビニまで行く途中、食事に入った飲食店・・・たまたま見かけた人を見て「おいしそう」と思った経験が貴方にあるだろうか?
恐らく多くの人にとって耳を疑う質問であり、「いいえ」と回答する者が圧倒的多数であろう。

しかし、いいえと回答できるのは、あくまで多数であり、全てではない。
そして圧倒的マジョリティーからこぼれた―人間を見て「おいしそう」だと思った人間が確かに存在し、実際に事を起こしたのだ。

目次

パリ人肉事件とは~事件概要

1981年6月11日、フランス・パリに留学していたあるオランダ人女性留学生(当時25歳)が射殺される事件が発生する。犯人は彼女の友人で同じくパリに留学していた日本人 佐川一政(当時32歳)という男だった。

この殺人事件、男女の痴情のもつれとか、金銭目的といったいわゆるありがちな理由が犯行動機ではない。
この佐川という男、女性を殺害した後ひとしきり屍姦した上で本来の目的を遂行する。

彼が女性を撃ち殺したのは、彼女を、人肉を食べるという目的の為だったのだ。
別に佐川が食うに困っていたとか、人肉には薬効があるなどという迷信を信じていたわけではない。
世間の人々が、牛肉が食べたい、魚が食べたい、野菜が食べたいというのと同じように、佐川は食のバリエーションの一端として「人肉」が食べたいと思い、実際に人1人を殺害したのだ。

佐川は女性の遺体の尻を肉用のナイフで解体し、生のまま食べる。さらに続けて乳房を切り出してフライパンで加熱し、人肉ステーキとして味わった。
遺体を解体した際には、写真撮影まで行い、食べきれなかった部位は一旦、冷蔵庫に入れて保管。
翌日の朝食にも太ももなどの特に肉付きのいい部位を調理して食した。

その後6月13日になって食べきれずに残った遺体をスーツケースに入れて池に捨てにいった。しかし、この様子をたまたま通り掛かった人間に目撃される。
目撃者はスーツケースを捨てたのは小柄な東洋人の男性と証言した。

東洋人というだけでも人数が限られることに加えて、当時の佐川は身長152cm、体重35㎏と成人男性としてはかなり小柄だったため、すぐに容疑者として浮上することになる。
遺体を捨てた2日後の6月15日には、佐川は逮捕されることとなった。

事件に至るまでの佐川一政の半生

佐川一政は裕福な家庭の元に生を受け、父と母、そして弟の4人家族だった。

未熟児として誕生し虚弱体質だったため、幼少期には一体いつまで生きながらえることができるのかと両親を心配させていたものの、すくすくと成長していく。
幼少期の佐川はやや内向的な性格ではあったものの、弟と遊んだり、時には喧嘩をしたり、文学や音楽に傾倒してみたりと普通の少年時代を過ごしたようだ。

一見するとごく普通の幼少期から青少年期を過ごしたはずなのだが、佐川は事件後に自身が小学生の頃には人肉を食べることに興味があったと語っており、この頃から将来起こる事件のきっかけを持ち合わせていたことになる。

そして彼の危険な嗜好が露見する「事件」が起きる。

日本国内の大学に在籍している際、佐川はドイツ人女性が住む家に無断侵入したとして逮捕されたのだ。しかし、佐川家が裕福な家庭だったこともあって、被害者側に多額の示談金が支払われたことにより、この事件での告訴は免れている。

佐川がこのドイツ人女性宅に侵入した理由、それは住人女性の肉を食べる事だった。この人肉食は未遂に終わったわけだが、もしもこの事件の際に佐川の異常性に家族が真剣に向き合い、なんらかの治療を施すなどの対応を取っていれば、その後の「事件」は起こらずに済んだのかもしれない。

その後、日本の大学院卒業後に佐川は渡仏し、パリ第3大学大学院比較文学専攻修士課程修了後、同大学院博士課程に在籍し現地で留学生活を送る。
そして、先に触れた「パリ人肉事件」を引き起こしたのだ。

まさかの不起訴処分

1人の女性が殺害・屍姦された上に、殺した人間の肉を食べたというおぞましき事件。
殺された女性の遺族や親しかった人たちからすれば、3度殺されたと言われてもおかしくはない残忍な行いと言えよう。そして猟奇的事件の犯人である佐川は「カニバル・ジャポネ(人食い日本人)」として、日仏両社会に大きな衝撃を与えた。

遺族は犯人に対し、より重い刑罰を望んだだろうし、逮捕された時点でこの事件を知る者たちのほとんどが佐川の「有罪」を確信していただろう。
確信したというよりも、「人を食うような奴が裁かれもせずに同じ世間を闊歩されては堪らない」というような恐怖心を抱いたのではないだろうか。

しかし、蓋を開けてみれば結論は「不起訴」。

佐川がなにを考え、どういった事情のもとに人1人を殺害し、屍姦し、果ては食べるまでに至ったのか、その理由を裁判という開かれた場で問うこともできずに事件は終了してしまったのだ。

不起訴の理由は事件当時、心神喪失により責任能力がなかったと判断されたためだ。
一説には佐川が幼少期に患った「腸炎」が「脳炎」と翻訳されたことが一因となったとも言われている。

また、佐川逮捕後、佐川の父親がすぐに渡仏している。国外でどれほどの影響力を発揮したか確かなことはわからないが、先に起こしたドイツ人女性宅無断侵入事件の時同様、家族、とりわけ佐川の父親が心神喪失による不起訴を勝ち取れるよう、なんらかの働きかけもあったのではないだろうか。

この不起訴処分により、佐川はフランスの精神病院に入院。
同国の病院を退院した後の1984年には日本に帰国し、都立松沢病院に約1年入院した。

この入院生活の過程で佐川と関わった医師や日本の警察は、彼は事件当時、心神喪失などではなく責任を問えるのではないかと主張したものの、フランスでの不起訴処分の決定が覆ることはとうとうなかった。
これだけの猟奇的な犯行を行いながらも、佐川に法の下の刑罰が科されることはなかったのだ。

事件後の佐川

日本に帰国後、佐川は自ら起こしたパリ人肉事件の一部始終を記した小説「霧の中」を出版し、作家として活動するようになる。

そんな中、1988年から1989年にかけて東京都や埼玉県で計4人の幼女・女児が誘拐された上、殺害された東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件が発生。
この事件では、犯人である宮崎勤が、第4の事件の際に食人行為に及んだと罪状認否で述べたこともあり(その後の裁判で食人行為は虚偽の疑いが濃厚とされている)、佐川は猟奇犯罪者心理の理解者としてメディアに引っ張り上げられ、一躍時の人となった。

その後もカニバリズムや猟奇的事件をテーマにした著作を重ね、講演やトークショーに出演したり、アダルトビデオに出演したり、自身の犯行を題材とした映画にまで出演するなど、2022年11月、73歳で亡くなるまで活動していた。

カニバリズムという嗜好

さて、そもそもカニバリズム・食人行為とは一体何なのだろうか。
カニバリズムという人間が人間を食べるという行為は、昔から世界中で散見されたきた。

個人的な見解による分類になるがカニバリズムは大きく分けて、社会的にみて有意義な食人行為と社会的にみて意義のない食人行為に分けられると思う。

社会的にみて有意義な食人行為とは、自身の生存のためにやむを得ず行われた食人行為や文化的・宗教的意図があって行われた食人行為、健康のために行われた食人行為などが挙げられる。

生存のための食人行為

生存のための食人行為として有名なのが、「ひかりごけ事件」だ。
北海道・冬の知床の海で遭難し、餓死した仲間の人肉を食べて生還したことを罪に問われた事件である。
また戦時下、食糧の不足に喘いだ兵士たちが敵兵や戦地の現地民、仲間の死肉を食べた例もある。
こういった生死のかかった事例を見聞きして、手放しで糾弾する人は少ないのではないだろうか。

筆者自身も自分が生死の淵にいて、なんとしても生きたいと思った時に、目の前で口にできるものが人肉のみだった時に「絶対に食べない」と断言できる自信はないし、恐らく多くの人が同じような感想を持つのではないだろうか。

文化的・宗教的意図がある食人行為

葬儀の場において死者への愛情や哀惜の念から行われてきた「骨噛み」は文化的・宗教的な意図のある食人行為の一種と捉えることができるだろう。

パプアニューギニアに住むフォレ族は葬送儀礼の一種として、故人の要望があればそれに応える形で食人行為を行っていた(なお、現在は行われていない)。
こういった食人行為は、故人の肉を体内に取り込むことで、親しき人を失った悲しみを乗り越えたり、精神的な力を得るための一助としたのではないだろうか。

健康のための食人行為

健康ための食人行為は、人体を薬として扱い病気やケガを治すために利用するような行為だ。
日本において江戸時代の死刑執行人、山田浅右衛門が当主を務めた山田家が売っていた人胆丸などと呼ばれる丸薬は人間の肝臓や脳、胆嚢、胆汁などを原料としていた。
人胆丸は特に結核に効くと当時は信じられ、人気の薬だったそうだ。

ヨーロッパでは人間の遺骸・ミイラを原料として作られた万能薬、マミアが好評だったいう。
人気の薬であったため、原料であったミイラが足りず、エジプトから盗み出したミイラのみならず、ヨーロッパ各地の墓地から死体を掘り起こし、ミイラに仕立てた後に薬にするほどだったいう。

マミアについては口にした人、皆がミイラが原料の薬と認識していたか不明な部分もある。

しかし、マミアが人体を原料としていると知っていたとしても、口にする際の形が人を思わせない薬という形であったことから、食人としてのハードルが低かったのではないだろうか。

死を回避するために薬を飲むとすれば、生存のための食人行為い近いものがあるのかもしれない。

社会定期意義のない食人

先に挙げた3種類の食人行為は、食べる側の人間の内から出た個人的欲求に従って人間を食べたのではなく、必要に駆られて、またはなんらかの社会的に理由付けできる意味があって行われた食人行為だ。

一方で今回の佐川のように「食べたいから食べた」、というある意味人間の根源的欲求を満たすための食人行為は、先に挙げた意味のある食人行為のような理由がない。

それぞれ意義のある食人行為について、もちろん議論の余地はあるし、個別の案件によっては賛否が分かれるものの、諸手を挙げて絶対にやってはいけない行為だと否定できる人は少ないと思う。
しかし、自らの欲を満たすためだけの食人行為については、恐らく大多数の人が嫌悪するだろう。

これはあくまで私見だが、私たちがカニバリズムを嫌悪するのは、人肉を食べることが人を傷つけ、最悪の場合死に至らしめ罪に問われる可能性があるため、そして自らが人間を食べるということは他人も人間を食べる可能性があるということであり、自分が被捕食対象になることを本能的に恐れているからではないだろうか。

自然社会において、人間は良くも悪くも1人では生きられない。
ほとんどの場合、最低限は他人を信用しながら、他者との関りの中で生きていかなければいけない。

そんな中でもしも自分と社会を共有する者の中に食の対象を人間とする者がいたらどうだろうか。
疑心暗鬼に陥り、私たちは社会を形成しないと生きていけない人間として生きることが困難になってしまう。

カニバリストがいるということは、捕食される恐怖で、自分が生きるべき社会を形成できない可能性がある、つまり自分の生存が危ぶまれる状況に陥るということなのだと思う。
それ故、食欲または性欲の一端として食人行為を行なう者たちを、私たちは忌避するのではないだろうか。

佐川は本当にカニバリストだったのか

カニバリズムとはなんなのかについて考えてきたが、人食い日本人・佐川一政は本当にカニバリストだったのだろうか。

気になるのは、佐川が人生で食べたのが結局1人だけ(もしも発覚していない食人行為があれば話は別だが)という点だ。人間の三大欲求のうちの2つである食欲や性欲に近いところにあると思われる食人行為に対する欲求を長きに渡って我慢することは果たして可能なのだろうか。
もちろん三大欲求も人によって強弱はあるし、年を重ねるごとに本人の中でも欲求が弱まってくることはあるだろう。

フランス・日本での入院生活の過程で、佐川が食人行為に対する欲をコントロールする術を身に付けたと理解することもできるかもしれない。

ただ、佐川はメディアを通じて自身の食人行為への飽くなき欲求をたびたび語っている。その発言やコメントが事実であるなら、食人欲求は収まっていないようにも思える。
佐川が本当にその後も人を食べようと思っていたのなら、メディアに出たりして目立たない方が得策だ。

人間は忘れてしまう。
佐川自身や事件を風化させてしまい、世間に埋もれてしまった方が次の食人行為はしやすかったはずだ。
それにもかかわらず、佐川は本を出版し、テレビに出演し、はたまたアダルトビデオに出て世間に話題をふりまいていており、強い自己顕示欲や承認欲求を感じさせる。

もしも佐川の食人行為が、カニバリズムという未知の欲求を世間に見せつけることで、他人から注目を浴び、自己顕示欲や承認欲求を満たすための手段としての行為であるのならば、佐川は真の意味でのカニバリストではないのかもしれない。

佐川が亡くなった今、人肉食への欲求がどちらの欲求を端緒としたものなのか見分けるのは難しい。
果たして佐川本人は自身のカニバリズム欲求の正体を正確に掴めていたのだろうか。

最後に

多くの人が忌避する人を喰うという行い。
恐らく大多数の人間が人を食べたこともなければ、人を食べたいと思ったこともないであろう。しかし、他人を美味しそうと表現した佐川と私たちの間にあった違いとはなんだったのだろうか。

自分たちの生い立ちと比べて、佐川が取り立てて特殊な環境で育ち、生活していたとは思えない。
一体なぜ、佐川の心の内で食人行為への興味が芽生え、欲求として発散されるまでに至ったのか。

そして本当に私たちの中に佐川のような食人欲求は影も形もないものなのだろうか。
佐川だけが特殊で特別なのではない。
もしかしたら貴方のそばにも、私たちを見て舌なめずりをしている隣人はいるのかもしれない。

※画像はイメージです。

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