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西郷隆盛、城山で最後の謎?

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1877年に起きた、最後の内戦と呼ばれる西南戦争。
開戦後、およそ7ヶ月後の1877年9月24日に西郷隆盛は、鹿児島にて最後を迎えます。
最後の様子を詳細に知る人は少なくまた謎のある最後を考察していきます。

目次

西南戦争

1877年2月、政府の諸政策に反発する西郷軍は東京めざし鹿児島を出発し、明治新政府の近代化した軍に敗北し追い詰められた西郷軍は1877年9月19日から9月24日まで鹿児島の城山で最後の抵抗を試みます。

元々西南戦争を行う事に西郷隆盛は反対でした。
私学校の生徒たちが政府の弾薬庫を襲撃し、政府との関係性が険悪なものになった結果、その旗頭として担がれた存在でした。このため敗戦が濃厚になってきた中で、桐野利秋を除く幹部は密かに西郷隆盛の助命を行うための行動を開始します。
そして西郷軍が立てこもる城山を脱した幹部は西郷の助命を嘆願するため新政府軍を訪ねます。

結果的、新政府軍から西郷の助命の確約は得られず、あくまで総攻撃前に話を聞く事ならば可能であるという返答しかもらえません。西郷隆盛の助命を巡るこうした動きは、西南戦争で一貫して政府との対決を積極的に推し進めてきた桐野利秋を激怒させます。
この西南戦争を桐野の戦争だったと評価する人がいるそうで、そのくらい今回の西南戦争での桐野の役割は大きなものがありました。

西郷隆盛、最後の時

開戦前から政府との交渉を行っても無駄であると意見し、慎重論を唱える一部の幹部の意見を抑え出兵に向けて主導権を取りました。その結果、西郷軍は朝敵となり、明治維新の功労者である西郷隆盛は、ついに最後の時を迎えつつあります。
西郷は西南戦争の途中から桐野を避けようとするようになり、いつしか、西郷軍の内部で西郷隆盛と桐野利秋の関係性が良好ではないという噂が流れたそうです。

この時代、朝敵とはいえ必ずしも助命が叶わない時代ではありませんでした。
鳥羽伏見の敗北で朝敵となった徳川慶喜や会津藩主の松平容保、さらには五稜郭で最後まで新政府の抵抗した榎本武揚などは、助命が叶い、謹慎などで済んだ過去があります。

このため、幹部が助命を考えて行動をとったのはそれほど特別な事ではなく、むしろ明治新政府の重臣ともいえる西郷隆盛だけは命を助けたいと考えるのは理にかなっています。
しかし、桐野利秋にとり、維新の功労者である西郷隆盛が新政府に降伏してしまう事に耐えられない屈辱を感じたのかもしれません。

謎の証言

歴史的に見て西郷の最後は、記録にある限り、1877年9月24日の午前7時ごろ流れ弾に当たり瀕死の重傷を受けたのち別府普介の介錯でその生涯を終えたとされていますが、この戦いに西南軍として参加し、生き延びた兵士が後日西郷の最後について衝撃的な証言を残しています。
この証言は彼の最後を謎めいたものにしているのです。

それ即ち、城山を出て政府軍に徐々に接近する西郷隆盛の行動を政府軍への降伏と解釈した、桐野利秋が後ろから狙撃したという信じがたい証言です。いささか驚くべき話ですが、この戦いは政府軍がおよそ3万人程度。西郷の残存部隊である300人程度を壊滅させる、早朝の明け方に山の中で行われた戦いです。

最後の様子を正式に目撃した人は、ほぼおらず、政府軍の中にも西郷隆盛に攻撃を加える事に極めて神経質になりできれば自分はその役割を演じたくないという兵士が多かったと言われています。

結局有名な最後の言葉である「普どん、もうここでよか」という言葉を残しその最後の詳細は明確にわからず、この世を去った西郷隆盛。
今でも鹿児島の南洲墓地で、眠る最後の様子は永遠のミステリーです。

※画像はイメージです。

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