太平洋戦争の1944年(昭和19年)6月
アメリカ軍は当時、日本の領土であるサイパン島に上陸します。
絶対国防圏の最前線にある要所、サイパン島をいかに日本軍は守ろうとしたのでしょうか。
絶対国防圏
サイパン島があるマリアナ諸島は第一次世界大戦の時にドイツ領(グアム島はアメリカ領)であったのを日本が占領しました。
1919年(大正8年)に調印されたベルサイユ条約でマリアナ諸島など赤道より北にある西太平洋の旧ドイツ領を日本が統治する事が認められました。
こうして西太平洋に広大な地域を持った日本、時代は太平洋戦争へ
1943年(昭和18年)に日本軍軍は絶対国防圏を設定します。
この圏内は連合国軍の侵攻を防ぎ、守り通す地域とされた。
太平洋ではパラオやマリアナ諸島がその最前線となり、防衛の強化をします。
特にマリアナ諸島は米軍の新型爆撃機B-29が配備されれば、日本本土が爆撃できる拠点になってしまう。
マリアナ諸島の防衛は日本にとって重要な意味がありました。
サイパン島防衛準備
マリアナ諸島北部にあるサイパン島
大規模な飛行場が建設可能で、日本本土に最も近い位置にある島
そんな要所であるものの、海軍の警備部隊が少し配置されていただけだったサイパン島
1944年(昭和19年)2月、大本営はマリアナ諸島を含む中部太平洋の防衛を担当する第31軍を編成
陸軍部隊が送り込まれるものの、関東軍からの抽出部隊など細々した部隊の展開が続きました。
ようやく防衛の中心戦力となる第43師団が名古屋から配備される事となります。
米軍潜水艦により第43師団を乗せた輸送船団が攻撃され、1個連隊が多くの人員と装備を失ってサイパン入りします。
第43師団のサイパン到着は米軍上陸の直前と言える5月に入ってからであり、サイパンの地理を把握して作戦を練る十分な時間が無いまま実戦の時を迎えます。
サイパン島攻防戦の始まり
1944年(昭和19年)6月15日
米軍のホーランド・スミス海兵隊中将率いる7万人(第2海兵師団・第4海兵師団に陸軍の第27歩兵師団)がサイパン島に上陸します。
対する日本軍は第31軍司令官である小畑中将がパラオ出張中であり、防衛戦の指揮は第43師団の師団長斉藤義次中将が執ります。
サイパン島は第43師団に、独立混成第47旅団・戦車第9連隊・高射砲第25連隊・独立工兵第7連隊など2万4000人
これに加えて南雲忠一中将率いる海軍の中部方面太平洋艦隊(在サイパン部隊は第5根拠地隊や空挺部隊である横須賀第1特別陸戦隊など)が6000人
合わせて3万人の日本軍がサイパン島の守備に就きました。またこの当時、サイパン島には2万人の日本人が住んでいました。
サイパン島攻防戦は日本軍にとって自国民が住む地域での戦闘にもなりました。
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