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絶対国防圏は破られた~サイパン島攻防戦(後編)

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1944年(昭和19年)6月、米軍が日本領のサイパン島に上陸
日本軍は激しい防衛戦を展開、しかしサイパン守備隊は軍民共に悲劇へと向かうのです。

目次

海岸の戦い

1944年(昭和19年)6月15日朝、米軍は2個海兵師団をサイパン島南西のオレアイやチャランカノアの海岸に上陸した。この上陸を迎え撃ったのは独立混成第47旅団、満州の関東軍から派遣された部隊で編成されたこの混成旅団は激しく戦う。
日本陸軍が島での防衛戦の方針として打ち立てた水際撃滅

この方針は上陸したばかりの敵を海岸で防ぎ、撃退する事を目的としている。
だから米海兵隊を乗せた舟艇が海岸に近づくや、日本軍は砲火や銃撃を浴びせる。
激しく正確に狙う砲火に米軍は混乱状態になり、第2海兵師団では大隊長全員が負傷するほどであった。

海岸から内陸へ進めない米軍へ、日本軍は歩兵の斬りこみや戦車を投入して逆襲を試みるものの、米軍は沖の艦艇からの艦砲射撃や混乱から立ち直った海兵隊が踏み止まり撃退する事はできませんでした。

反撃に出る日本軍

米軍はサイパンの海岸に足場となる橋頭保を築きました。
日本軍は海岸から米軍を撃退すべく16日と17日の未明に反撃を行います。
陽が出ている日中は空襲と艦砲射撃動けない日本軍、夜になってから移動するものの、米軍の艦砲射撃は夜も続き日本軍の動きを妨害する。
この妨害で全ての部隊が集まらないまま、日本軍は反撃を開始しなければならなかった。

海軍の空挺部隊や陸軍の戦車連隊をも投入した夜間攻撃は連携が上手く行かず、米軍に対して奇襲にならず、米軍の艦砲射撃まである圧倒的な火力を浴びて戦力の多くを失った。
一方で日本海軍の連合艦隊は「あ号作戦」を発動、第1機動艦隊でマリアナ沖の米機動部隊を攻撃しました。
この6月19日から20日にかけてのマリアナ沖海戦は日本軍の敗北に終わり、サイパン島は救援が来ない孤島と化しました。

サイパン島陥落

日本軍の反撃が失敗すると、米軍は攻めに出る。
戦力を消耗した日本軍は残る将兵でその場を全力で守るものの、6月18日に米軍はサイパン島南部を西から東へ横断するまで前進
日本軍は海岸で敵を撃退する事ができませんでした。

米軍は残る1個師団も上陸させてサイパン島を北へと攻め上がります。
日本軍はサイパン島へ増援を送ろうとしていましたが、海軍は空母戦力に大打撃を受けた為にサイパン島へ近づけなくなっていた。
もはや追い込まれるばかりとなったサイパン守備隊は激しい抵抗を続けるものの、7月6日に守備隊の首脳である斉藤中将・井桁少将(第31軍参謀長)・南雲中将が自決

翌日未明に守備隊は最後の突撃で玉砕した。
守備隊と行動を共にしていた民間人は崖から飛び降りるなど自決した。
サイパン島の戦いは、より悲惨さを増す戦争のはじまりと言えます。

※画像はイメージです。

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